今週の説教要旨

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2011年2月20日

「秘められた計画」 

榎本栄次 牧師

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 2章1-5節

 私たちの信じる神は、「提示された神」であると共に、「隠された神」でもあります。人の中に示されたものでありながら、人の手によらない真理です。ほんとうのことは隠されており、人の知識や経験では分からない隠された計画があります。そしてそれはとても単純なことであり、誰にでも理解できて、どんなに勉強できても分からないことです。ですから、私たちが神につき、救いについて知ろうとすれば、神様の方から私たちに働きかけてくださるのを待つ以外に方法はありません。

 使徒パウロは、「神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」と言い(2:1)また「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」とあります。(2)パウロは、コリントでの宣教の前にアテネで伝道したのでした。そこは議論好きの学者が多く、「何か新しいことを話したり聞いたりすることで時を過ごす」人が多くいました。パウロはその人たちに一生懸命キリストの話をしたのですがあまり成果は上がらなかった様です。「信仰に入った者も何人かいた」(使徒17:33)という結果でした。失意のうちに来たのがコリントでした。その時のパウロは「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れにとりつかれ、ひどく不安でした」(3)と言っています。

 彼は心を思い直し「優れた言葉や知恵を語りませんでした」。十字架の言葉以外に語るまいと決心したというのでした。私たちに表された神の恩恵の起源や根拠は、私たちの経験を超えた神御自身のところにあります。それは、まさに「神の秘められたご計画」です。私たちがこの神の秘められた計画を知るには、神からの力を待つしかありません。自分の力や知恵ではとらえることができない大きな力に捕らえられていることを、感謝と謙虚な心を持って持ち、受け止めることです。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリストに捕らえられているからです」(フィリピ3:12)と言っているように、私たちが捕らえているのではなく、捕らえられているのです。「十字架の言葉」とは、恥と敗北と痛みの言葉です。勝利、賛美、確信ではなく、愚かな言葉です。パウロが「わたしも」と呼びかけていますが、彼もまた賢さではなく、「宣教の愚かさ」(1:21)によって語るのです。神のご計画は、そこに働くことでしょう。語る者も、聞く者もそこに働かれる神の力に触れる者です。

 確かに教会は、この愚かさや矛盾を多くもっています。「キリスト教なんか」「教会なんか」という言葉を聞かされることがあります。確かにその人の言葉は正しいかもしれません。何とか取り繕って希望を語っても、気休めに過ぎず、現実逃避にしか聞こえません。宣教の愚かさはそこで働く神の力を持つのです。

 十字架の言葉というのはその現実での言葉ではないでしょうか。そしてそこにこそ、「神の秘められた計画」があるのです。華やかな言葉ではない、むしろ忌み嫌われる所、そこに留まって語るのです。愚かがいいのではない。愚かさを抱えて、神の側からの働きをまつのです。それはとても難しいとても分かりやすい秘密です。

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。