今週の説教要旨

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2011年4月10日

「古いパン種」

榎本栄次 牧師

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 5章 1-8節

 信仰は、倫理や道徳ではありません。新しい自分に出会う救いの真理です。しかしまた道徳性や倫理性のない信仰も成り立ちません。イエス・キリストが「わたしが来たのは律法や預言者を廃するために来たと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5:17)と言われたとおりです。そのように思った人たちがいたのでしょう。どんな罪も許されたのだから、キリスト教では何をしてもいいのだという誤解が生まれやすいのです。民主主義もそうです。そこには厳しい拘束が不可欠です。常に自浄力の働く自己との問いかけがなされねばなりません。古い自分から新しい自分に変わる出会いです。しかも変わり続けることです。信仰は自分と関係のないところで神の存在を信じるのではなく、神との関係に置かれた自分と出会い、それに向かって自らを整えていくのです。

                        

 使徒パウロはコリントの教会の人々に対し「古いパン種をきれいに取り除きなさい」(7)と勧めています。教会の中に不道徳なことが起きているのに自浄作用がなくなっていたからです。「あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは異邦人の間にもみだらな行い」(1)であり「それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんでこんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではないのですか」(2)と厳しく抗議しています。「父の妻をわがものとしている」人のことが事例としてあげられていますが、他にも乱れたことが横行していたようです。ここでパウロは、この個人の行状を責めているのではなく、それを不問にしている教会を叱っているのです。「高ぶっている」というのは、悲しむべき時に喜んでいるとか、いい気になって吹聴しているとかいうことです。知恵を誇り、知識を競い合って、党派に分裂している状況でした。不道徳なことも知者のしるしのように見られていた、みんながそれをよしとしていたわけではなかったでしょうが、問題にしないその教会を責めているのです。

 聖書の中には対立する概念が共存しています。たとえば、「平和を実現する人びとは幸いです。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのである」(マタイ10:34)「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」(イザヤ2:4)「お前たちの鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ」(ヨエル4:10)「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」(マタイ18:8)「許しなさい」「許してはいけません」というように、反対ともとれる命題が共存しています。そのどちらか一方を取り上げて、聖書にはこう言っている。これこそキリスト教ですと主張してみても、それで正しいことにはならないでしょう。それでは意味がないのかというとそうではなく、その時と場でなくてはならない生きた関係を作り出すのです。

 コリントの教会にとって、「パン種をきれいに取り除く」ことはなくてはならない課題でした。「許し合い」「裁くな」「兄弟をつまづかせてはいけない」「大切な人だから」というような議論もあったことでしょう。「その日に、彼の霊が救われるために」(5)あせてそれを求めるのです。イスラエルの人たちは、出エジプトするときに、種入れぬパンを持って出エジプトしました。後の人たちが、毎年行われる過ぎ越し祭にはそのことを覚えてイースト菌の入っていないパンを食べました。それは固くて辛いことを覚えるのです。甘くて柔らかなことが全体をだめにしてしまう。自浄作用を大切にしたのです。こんなことぐらいと悪習になっていること、そんなこと言ったらもめるから、今更…などと思ってついそのままにしていることがないでしょうか。もともときれいな人などいない。みんなそれぞれに古いパン種を持っているのが普通です。そこからです。主に許されてそのパン種を取りのけましょう。

 甘くて優しいことは、キリスト教のすばらしい一面です。しかしそれだけでは、力にはなりません。むしろ有害です。自分たちの中から「古いパン種をきれいに取りのける」作業が常に求められています。その中から福音の新しい喜びと力を経験するのです。

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。