今週の説教要旨

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2011年4月24日

「主に清められて」

榎本栄次 牧師

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 6章 1-11節

 イースターおめでとうございます。復活はキリスト教信仰の根幹であり新しい神の支配の始まりです。私たちはこの世に属するものです。そして復活信仰とは、罪の存在である私たちが、主の贖いに清められ、この世に死んで新しく甦る命に活かされることです。自分の延長線上にあるのではなく、神の命につながるのです。

 パウロは「正しくない者が、神の国を受け継げないことを知らないのですか。思い違いをしてはいけない」(9)と言っています。それはキリストにつながらないままということです。それではキリスト者と言われる人は皆「正しい人」なのでしょうか。「あなたがたの中から悪い者を取り去りなさい」と言われたら(5:13)私の居場所がなくなります。と言わざるを得ないのではないでしょうか。私はこの一週間この言葉に悩まされました。

 パウロはコリント教会の人たちに対して「思い違いをしてはいけない」(9)と言います。そして「あなたがたの中にはそのような者(悪人)もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」(11)。と勧めています。それは自分が何か正しい者であるかのように思い違いをしてはいけない。または何か努力して神の国にふさわしい者になれると思い違いをするなということです。私たちが正しいのは、キリストの名による他ないのです。キリストにつながることにより、洗い清められ、その信仰によって義とされるのです。ここでパウロが言う「正しくない者」(9)とは受身形です。すなわち「正されていない者」という意味です。そのままでは「清くない者」「義とされていない者」です。それで努力して正しくなれるのではありません。キリストによる他ないのです。

 さてパウロは教会の中で起きている争いごとについて述べています。それを内部で解決しないで、世俗の裁判に訴えていることを非難しています。「あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われたままでいないのです」(7、8)。パウロはここで、この世の裁判制度を否定しているのではありません。宗教によっては自分たちの独自の教えで、「地の法律である地法ではなく、天の法律である天法に従う」と言ってとんでもない不道徳なことをあたかも神の命令であるかのように説く宗教があります。パウロはこのようなものとは無縁です。

 この地上で悪とされたことであっても、天の国では違う判断があるということではありません。この世でいけないこと「みだらな者、姦通する者、盗む者、暴力をふるう者」などは、当然神の世界でも許されません。暴力をふるったり、詐欺のようなことをして年寄りからお金をだまし取るというようなことを神の名によってすることはとんでもないことで許されることではありません。

 キリストにつながるということは、たとえそのような悪い人であったとしても、義とされ清められるのです。その義につながることです。そこでは弁解したり、争ったりすることはない、既に勝利している神の義に属するからです。だから負けとけばいい、損をしていればいい。もう既にその争いは勝っているのですから。

      

 「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。誰かが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」(マタイ5:38-42)また「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(同44)というイエスの命令は、道徳の勧めではありません。主イエスが私たちの罪の贖いとなって下さったという裏付けがあっての勧めです。キリストにつながることによって清められ、義とされるのです。にもかかわらず古いままの自分たちのやりとりに対してパウロは批判を投げかけるのです。

 「ねばならない」が先立つと、裁き合いが起きるしかありません。「主の恵」が先行するのが信仰です。それに応えようとして「ねばならない」が起きてくるのです。

日本基督教団 世光教会のご案内

世光教会の礼拝に参加をしてみたいとお考えの方、キリスト教会は、キリスト教信者だけが集うところではありません。
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世光教会では、結婚式をはじめ、キリスト教による告別式など冠婚葬祭も心をこめておこなっています。

聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。