今週の説教要旨

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2011年7月10日

「試練に耐える道」

榎本栄次 牧師

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章 1-13節

 どのような事柄にもそこには神の隠された意味があります。どうしてこのようなことが起るのだろうかという事件に出会います。自分たちにとって大変なことが起らないようにと願いますが、願い通りには行きません。起こっていることに対して「どうして」と考えます。どう耐えればよいのでしょうか。パウロは「試練と共にそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださっています」(13)と言っています。キリスト・イエスにつながることこそがその道です。イスラエルの出エジプトの歴史は、試練の連続と言えるでしょう。

 出エジプト記は、昔のイスラエルの出来事でありながら、同時に、今日の私たちの信仰生活に深く語りかけてくる内容を持っています。私たちが、キリストにより救われると言うことは、古い罪の奴隷の生活から解放されて、自由の民とされることです。私たちの信仰生活は、神の約束の地を目指して出エジプトの旅に出かけたイスラエルの人々の歴史にも通じるものがあるのです。

 神は奴隷の状態に合ったイスラエルの民をエジプトから解放するために次々と奇跡が起こされました。ナイル川の水を血に染め、蛙を国中にあふれさせたり、皮膚病を蔓延させたりします。さらにあぶが湧いたり、雷と雹が降って作物が全滅したり、イナゴの大群で作物が食い荒らされたり、3日間太陽が隠れ真っ暗になったり理解に苦しむ出来事が起きました。ファラオの心を変えるため、次々と起こる事件です。こんなことが起きてもなおエジプトの王ファラオの心は頑迷に抵抗します。最後にエジプト人の長子が犠牲になるに及んで、ついに王の心が変わったかに思えます。イスラエルに出ていってくれと頼むようになります。いよいよ60万人のイスラエル人がエジプトを出るのですが、紅海にさしかかったとき、エジプト兵の追撃に遭います。その時、主は大きな奇跡をもって紅海を分けてイスラエルの民を救うのでした。

 このようにどんなに抵抗しても神の計画は進められるのです。それを救済史と言います。曲がり、躓きながらも神の御心は進むのです。イスラエルが救い出されたのは直線的に目的地に着いたのではありません。幸せなことばかりではなく、試練の連続でした。その中でイスラエルは、神の神たることを知っていくのです。出エジプトの初期までは、主にエジプトのファラオのかたくなさと、イスラエルの願いと共にある神の力との対立という図式ですが、それからは不信仰の罪はエジプトばかりではないことが分かります。実は、ファラオのかたくなな心はイスラエルの民の不信仰であり、更に今日の私たちのそれなのです。

 パウロは、イスラエルの民の罪を省みながら、コリントの教会に対して、警告します。

 まず「むさぼる」罪を指摘します。イスラエルの民は、エジプトを出て食料に困りました。飢え死にしそうな彼らは、「こんなところで飢えて死ぬために出てきたのか」とつぶやきます。彼らに神は天からのパン、マナを下さいました。これは毎日与えられたのですが、何日分も集めた人がいました。しかしそれは次の日には腐っていました。神からの恵は「日ごとの糧」であり日々求めなければなりません。マナに飽きた彼らは肉が食べたいと騒ぎました。神はその願いも叶えてくださり、ウズラを腹一杯食べました。ここでも必要以上にむさぼった人たちが食あたりで死んだのです。むさぼることは、神の恵みを知らず、世界を支配していたもう神を否定して世界を自分の支配下に置こうとすることです。むさぼりは「我々に警告するシンボル」(モファット)です。

      

 次に偶像礼拝の罪があります。分かりやすい神を求めて牛の像を造ったのです。自分の所有物としての神を持とうとするのです。それが分かりやすい神であり、偶像です。神に聞くのではなく、自分の威力を飾ろうとするのです。一見信仰的に見えることであり、誘惑にのりやすいのですが、神ならぬものを神とすることであり、最も神の嫌うことです。

 そして神への反逆は、神を「試みる」ことでもありました。自分自身に対する神の意志を真剣に尋ねることをせず、自分の願望に合致するかどうかを試すのです。しるしや奇跡を求めるのは、主に対する不信から来ます。

 最後に、神に対する「つぶやき」です。エジプトからカナンに至る道のりはそのまま神の恵みの連続ですが、それはまた民のつぶやきの連続であり、指導者に対する不満や愚痴の連続でした。つぶやきとは、単にぶつぶつ言ったりぼやきを言うことではなく、神に対して積極的に抗弁することであり、神に非を鳴らし、自分の主張を通そうとすることです。結局民を神から遠ざけ後ろ向きにすることです。

 これらのことがコリントの教会に対しても言えることであり、今起こっている「試練」はそれに起因し、必要な事々でした。彼らは、試練の中でこそ、神がどのように意志されているかを悟ることができます。どのように抵抗しようとも、神の計画は進められます。途中でつまずく試練は、神の御心である救済史への過程です。神は「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道も備えていてくださいます」。主の試練からイスラエルの人が救いへと導かれたように、私たちも主の試練を通して神に立ち帰る者でありたいと思います。八方ふさがりのような試練に立たされるときがあります。主イエスにつながる道こそその逃れる道となります。

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
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