今週の説教要旨

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2011年8月14日

「神から出た者」

榎本栄次 牧師

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章1-16節

 私たちはみな神から出た者です。男も女も、日本人も外国人も、善い人も悪い人もみな神から出た者です。神から出た者であるから、それらはみな善い者ばかりかというとそうとは限りません。神から出た者には闇もあり、光もあります。教会だから間違いはないでしょうと思うけれども、それは大きな誤解です。そこにも悪いものがたくさんあり、曲がりくねった絶望があるものです。そのことを驚く必要はないでしょう。それらが神の方に向かうときに正され、清められていきます。そのことが大切なのです。「川は曲がりながらも大海に入る」ように、御心に導かれるのです。

  

 使徒パウロは「私たちがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」(1)と勧めています。このことは、パウロの言動が間違いなくすべて正しいから、それに倣えと言っているのではありません。むしろその逆です。自分は間違いを犯したり、言ったりする者である。知らないうちに大きな罪を犯しているかも知れない。いや自分こそ罪人のかしらであると言っています。(1テモテ1:15)そのような者に「倣いなさい」ということは、その言動ではなく、彼がキリストに倣う者(そちらに向かって歩むこと)であることに「倣え」というのです。そこには自分の義ではなく、キリストの義が支配するからです。

 ですからパウロの言葉であって、それが聖書の教えであったとしても限界があり、相対的なものと言わねばなりません。その時代や、民族の伝統の価値観、知識、周りの状況などに左右されています。その時代に「正しい」とされていることでも、時代と共に正され、改めなければならないことがあります。たとえば宇宙の理解について、天動説が聖書に基づく真理とされていました。しかしそれは科学の進歩と共に他動説に真理を譲らねばなりませんでした。このように神から出たものであるのに、真理の試しを受け正されることが必要なのです。

       

 さてパウロは今日のテキストにおいて、「すべて男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神である」(3)と言っています。そのために礼拝の時には、男はかぶり物をせず、女はかぶり物をしなくてはなりません。そうしいなら、その頭を侮辱することになると言います。そして「男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られた」(9)としています。礼拝の時のかぶり物については、当時のユダヤ教の習わしでした。後に4世紀頃からは男はみな礼拝時には、かぶり物をつけなければならなくなりました。今日の正統ユダヤ教の礼拝においては、男はみなかぶり物をつけて礼拝をしています。カトリック教会ではパウロの教えを忠実に守り、女の人はかぶり物をつけて礼拝をしています。

     

 ただし、男が女の頭であるというようなことは、本気で思っている人はほとんどいないでしょう。日本人は夫のことを「主人」と言ったりしますが本音はどうでしょうか。ここには、どんなに言い訳しても男尊女卑の考えが支配しているとしか考えられません。聖書にこんな教えがあるのは信じられない、という人も少なくありません。多くの説教者はこの箇所を避けます。ほとんどの説教集からこの箇所は外されており、ドイツの説教集でここを扱っているのはほとんどないそうです。しかし御言葉には聞く真理があります。

 いずれにしろこのようなことは信仰の真理問題ではないでしょう。パウロが「倣え」と言ったのは、彼のこのような言動ではなく、パウロがキリストに聞きながら、危機具体的に歩んでいる姿でしょう。その行動そのものは不動の真理ではありません。キリストに倣うことです。その時代に、最もキリストの教えに忠実であろうとして、男と女の秩序を教えたのです。そこには時代的な限界があります。その限りにおいて重要なことでした。

      

 「いずれにしろ、主においては、男なしには女はなく、女なしには男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、またすべてのものが神から出ているからです」(12)。すべて神から出たものでありながら、それらは神ではない。どちらが偉くて、どちらが偉くないかということではなく、その役割と秩序です。みな神から出たものであり、神に向かうときに、正され、用いられて最もそれらしき存在になり得るのです。祈りながら「自分で判断しなさい」(13)、そこに神が共にいて下さいます。

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。