今週の説教要旨

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2011年8月28日

「いろいろな賜物」

榎本栄次 牧師

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章1-11節

 私たちはどこかで認められたいと願っています。それ自体は何も悪いことではなく、むしろ人間としていたって健康的な感覚です。しかしそれが狭い自分の世界だけでしか計られないとすれば結局は空しい結果に終わってしまうでしょう。私たちが希望を持てるのは、この小さな存在が、個人であれ、国家であれ、それが永遠の存在である主の命に連ねられているということにあるのです。自分の存在はほんの小さな一部分にすぎないけれども、神によって正当に覚えられ、掛け替えのない存在とされているということに希望があるのです。一人一人に与えられている賜物は自分自身のためではなく、全体のためであり神のために益になるときに、初めて意味を持つのです。

   

 コリントの教会は、いろいろな賜物に恵まれた人が多くいたようです。しかしそれは紛争の原因になったり、特に異言を語ることについて優劣をつけたり、信仰の本来の姿から外れかけていました。部分的に優れたことであっても、全体をだめにすることがあります。そこでパウロは「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(27)と言い、教会を人の体にたとえています。一人一人はいろいろな賜物をもっているけれども、それらはバラバラに価値のあるものではありません。体には手があり、足があり、目があり鼻がある。それぞれ同じ働きをしていません。役割があって全体の体のために働くのです。教会もそれと同じ様に、いろんな人がいます。それが競争したり、裁き合ったりするのはキリストの教会としてはふさわしくない。むしろ他よりも弱いところが必要なのです。一人一人が主の教会の部分となるときに、「共に苦しみ」「共に喜ぶ」(26)ようになるのです。

 金子みすゞの詩を思い浮かべます。

       

 『私と小鳥と鈴と』 私が両手をひろげても お空はちっとも飛べないが 飛べる小鳥は私のように 地面をはやくは走れない。 私がからだをゆすっても きれいな音は出ないけど あの鳴る鈴は私のように たくさんなうたは知らないよ。 鈴と、小鳥と、それから私  みんなちがって、みんないい。

 ここには平和がある。自分に対しても他人に対しても許された者の自由があります。狭い信条のぶつかり合いは、主の望まれることではないでしょう。正義と正義がぶつかって戦争が終わりません。正義の前に自分を置いて、他を認めようとはしない。主の十字架はそこに穴をあけられたのです。主イエスの十字架は人を裁くものではなく、ご自分を人々のために裂いたのです。それによって私たちの平和が来たのです。主イエスは「平和を実現する人々は幸いです。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)と言われました。その平和の主に連なる者となりましょう。

 「自分は投獄された時を含め、すべてに見放され、自分のやっていることに全く意味がないと思える時を幾度も経験した。しかし私たちの生命が、たとえちっぽけでも、神秘的な存在の秩序を作る一部分である、その深い確信から、希望を回復することができた。人間が普遍的な、個を超えたものの中に存在すること、そしてまた、この普遍的な秩序の中で、個の行為をちゃんと見、記録さえしているものがある、という確信。そこからくる責任感。それによって、私たちは人類の未来に希望を失わないのだ。」「人類が未来に明るい希望を持つためには、まず人間の普遍的な責任感、個を超えた、はるか心の奥の責任感を呼び覚ますことが欠かせない。世界がこのような道を歩むかどうかはわたしには分からないけれど、わたしは希望を失わない」。(チェコのハベル大統領、広島で大江健三郎に語った言葉。岩波図書) キリストにつながるときに、私たちの賜物が生かされます。

日本基督教団 世光教会のご案内

世光教会の礼拝に参加をしてみたいとお考えの方、キリスト教会は、キリスト教信者だけが集うところではありません。
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世光教会では、結婚式をはじめ、キリスト教による告別式など冠婚葬祭も心をこめておこなっています。

聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。