今週の説教要旨

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2011年9月4日

「愛がなければ」

榎本栄次 牧師

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章1節-13節

 どんなに立派な信仰者も優れた哲学者も側にいる人が温かい愛を感じさせてくれるかどうかということが決め手になるでしょう。鉄の原則も愛によって溶かされる、どのような高邁な教義も、そのような人間的なものがなければ信じられません。愛はすべてに優って尊いものです。しかしまたそれははかなく頼りにならないものでもあります。固く結ばれた愛の絆も時間や状況の変化と共に変化し、期待が裏切られたりします。そして人は誰もみな愛を求めて生きており、それなくしては一切は無益なのです。

   

 愛の賛歌と言われる今日のテキストは、誰も共感するすばらしい内容を含んでいます。パウロはここでまず、自分を主語に置いて「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、・・愛がなければ、わたしに何の利益もない」(1-3)と言います。これは12章、14章で言われている霊の賜物、預言や異言、その他の優れた知識やよい行いのことについて言うのです。すなわち、様々な神から頂いた賜ですが、もしそこに愛がかけているならば、全く意味のない者になるのです。それぞれの賜物はそれなしにはキリストの体が成立しないような大切な働きですが、たとえどんなに重要な働きであったとしても、愛がなければ意味がないというのです。愛がなければ「騒がしイドラ」や「やかましいシンバル」にすぎないのです。

 そうであるとすれば、そのような愛とは何でしょうか。ここに挙げられている例の魂は、ことに預言や異言のように人間のわざとも思えないような優れたものであり、さらに自分の全財産をささげたり、わが身を死に引き渡すことなど普通の人にはできない偉業です。それは愛そのものの姿ではないかとも思えます。しかしパウロは「愛がなければ」というとき、その愛は親切とか親しさというようなものとは少し違うような気がします。愛と言えば夫婦の愛、恋人の愛、親子の愛、友愛です。それらが私たちの知っている愛(エロース、フィリア)であり、いずれも尊く人を生かしてくれるものです。それらがなければ、本当に空しくなります。しかしそれらを本来の愛に結びつけるものが必要です。それが愛(アガペー)すなわち神の愛です。

       

 4節以降に愛についての特質があります。「愛に忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない・・愛は決して滅びない」とありますが、果たしてそうでしょうか。愛はねたみを伴います。また焦ります。愛があると言いながら高ぶり誇るのも常です。愛は無作法をしないでしょうか。愛が深くなれば周りのことが見えなくなって無作法が許されるばかりか、無作法も愛の証とさえ思われます。「愛は惜しみなく奪う」といいます。熱烈な愛も変質します。その時は永久の愛を誓った恋人も何十年も経てば、当初のものとは変わります。母の愛にも限界があるでしょう。私たちはそこである種の断絶を経験するのです。本来なくてはならないものであり、それを作ろうとするのですが、実際にはそれが無い、しかしなくてはすべてが空しくなってしまうのです。それを他者に求めるが、結局それは幻想にすぎないことに気づきます。自分にもないし相手にも望めないものなのです。「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」という福音の愛は私たちの考える愛との間には全く逆のものがあります。ここで私たちはアガペーの必要を知るのです。

 それこそここで示されている愛であり、私たちは今日ほどその愛が必要な時代はないとも思えます。人が必要としてなくてはならない愛は、私たちの手の中にあるものではない。ここに示されている受身形の愛なのです。使徒ペテロは、金銀を求める障害者に対して「金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」といいました。(使徒言行録3)この持っているものこそ、アガペーであるキリストの愛です。それが無ければ一切は無益です。それは神さまの愛であり、イエス・キリストです。私たちに与えられた愛なのです。信仰も、希望もその愛に向かっているのです。

                        

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
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