今週の説教要旨

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2011年10月9日

「共にある神の恵み」

榎本栄次 牧師

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章1-11節

 神の存在とその御心とは、いと高く深いものであって、人間の理解の限界を超えています。人間の側から神を捉えることはできません。私たちはパウロと共に「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(ローマ11:33)と感嘆するしかありません。もし「私は神を理解した」と思ったならば、その時点で神から離れているでしょう。その理解は「そのような時もあった」という、やがて過去の遺物としての経験の一部に終わるでしょう。もし私たちが神について、また神の御心を理解できるとするならば、それは神御自身が私たちの生活の中に来られ、私たちに出会われることによって可能になることです。

   

 私たちに与えられた福音は、主イエス・キリストの死と復活に表されたものです。イエス・キリストの復活の出来事は、神の側からの働きかけによるものであり、人間の側から捉えることのできる事柄ではありません。しかも私たちの現実として現れた事柄です。そのように、この福音は伝えられたものでありつつ、「わたしの福音」となるのです。(ローマ2:16)

 死は、罪ある人間にとって神に至る道が閉ざされていることを示す審判の姿です。それに対して復活は、神から人間に至る道が開かれ、新しい命の始まりです。私たちは自分の姿を見せつけられるとき、深い絶望に気付かされます。それは死の世界です。主イエスはその世界から私たちを救い出し、神の恵みへと導いて下さいました。私たちはその恵みを共に受け、ここにより頼み、神に委ね、祈るのみです。

       

 パウロは自分のことを「月足らずで生まれたようなわたし」(8)と言っています。これはパウロのことを「使徒」と認めない人がいて、彼のことを嘲笑していた言葉かも知れません。しかしパウロはそれに対して自己弁明をしようとはしませんでした。むしろ彼は自分の弱さと傷とをそのまま認め、承認するのです。彼の反対者に対してこのように言うでしょう。「あなたがたの好むままにわたしを非難するがいい。・・私は自分のことなど少しも頓着しない。わたしに対する神の慈愛が一層輝き渡るために」(カルバン)。彼は自分を自己弁護するよりも、むしろ自分の暗い部分を改めて告白します。彼がキリスト教に対する激烈な迫害者であったことは、当時の彼の気持ちは、ユダヤ教への純真な信仰から出た行動であり、神への熱心からでした。しかし客観的には、キリスト者にとっての恐怖であり、キリストを信じる多くの人がそのために死んでいったのです。神に対する最も大きな罪を犯していたのです。人間の側からの理解はこのように全く逆のことになります。人間的には、「使徒と呼ばれる値打ちのない者」(9)と呼ばれても仕方ありませんでした。誰でも暗い過去は隠したい。自分の過去の罪を認めることは、自虐的とも取れます。しかしそれは人間の世界の力関係の論理です。キリストの許しの世界は向こうから来る恵みです。こちら側に資格があってできることではなく、神の恵みによるものです。逆説的に、自分の罪深さは、神の恵みへの道程になり、むしろ人々に進んで披露せずにはいられないこととなるのです。使徒としての召命は、パウロが志願してなったものではなく、無資格な者、否、最もふさわしくない者をあえて選ばれた神の恵みによるのです。罪の死から本当の自分に復活したからです。パウロは自分に対する人々の軽蔑を肯定して受け入れ、自分を無価値の極に置くことにより、この無価値な者を使徒として立てて、教会の基礎を据えようとされる神の御心にこそ光を当てようとするのです。そして「わたしと共にある神の恵み」に共にあずかろうと呼びかけるのです。

                        
                     
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2011/10/09 「共にある神の恵み」

                  
  

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
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