2013年5月5日
「塵芥に等しき者」
榎本栄次 牧師
聖書 ヨブ記 30章 1-31節
人それぞれに誇りがあります。それは自分の存在を根拠づけてくれるものと言えるでしょう。そ誇りが持てなくなると生きて実感が持てなくなります。それは自分の過去であったり、家族で会ったり、知識であったり、財産であったり、精神的にも物質的にも自分を守ってくれるものです。
ヨブ記30章において、義人ヨブは、以前は人から尊敬され、神の祝福を満身に受けていました。今は見る影もなく、人々から塵芥のように見られるようになりました。彼を見下げ嘲笑している者らの父親は、「何の力も残っていないような者らだった」(2「ところが今は、わたしが彼らのはやし歌の種、嘲りの言葉を浴びる身となってしまった」(9)彼らは世間から追われ、泥棒呼ばわりされている者らだった。「愚か者、名もない輩、国から叩き出された者らだった」(8)。にもかかわらず今は逆転して、その様な卑しい者たちに蔑まれている。彼らより更に惨めな者にされているのです。
ヨブは昔の繁栄に比べて、今の悲惨な状態は自分の罪のせいではなく、冷酷な神の手によるものだと訴えます。その様な仕打ちは「あなたは冷酷になり、御手の力をもってわたしに怒りを表される」(21)からだと嘆くのです。神を信じ、神にひたすら従っている者にとって、神から見放されることほど辛く悲しいことはありません。福音にはこのような逆転があります。失われた者が見つかり、持っていた物が奪われると言う逆転です。
信仰者が貧しく苦しい目に遭っていた、大逆転で幸せになるという話はよく聞きます。その逆はどうでしょうか。正直に、正しく生きている者がみじめな転落をするというのは。それも神の手によってそうなったとすると。自分の身に起こった苦しみに耐え、人から受ける苦しみにも耐えることができたとしても、神から見捨てられることには耐えられないでしょう。まさに塵芥にもどるのです。詩篇の記者は「卑しめられたのはわたしには良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」(詩篇119:71)と詠っていますが、信仰がなければ言える言葉ではありません。
主イエスはスカルの井戸辺で、水を汲んでいたサマリヤの女性に「水を飲ませてください」と頼みました。彼女はユダヤ人に差別され、サマリヤ人からもいじめられていた「罪の女」であり、絶望の中にいました。だから昼間、暑くて誰も来ないうちに水を汲みに来ていたのです。その彼女に水を飲ませてくださいと頼んだのです。主はこの女性のことをすべて知っていてそうされました。彼女はここでイエスに出会い、救われました。。彼女に「水を飲ませてください」と頼むことは彼女以下になることです。イエスは彼女に「命の水」の話をしました。「この水を飲む者はすぐに渇くけれども、わたしの与える水を飲む者は渇かないばかりか、その人の中で泉となってわき出るでしょう」。神様が私たちに下さる福音は、渇くものではなく、誰かに奪われるものでもありません。その人の中で泉となってわき出るのです。人に何か言われたからだめになるようなものではありません。
ここに逆転があります。神のイエスがこの女性の下になっていることです。主イエスが、人々から捨てられ、塵芥になられた。そのことにより私たちが命の水をいただけたのです。それこそがヨブに神が与えようとされていることであり、キリストを通して私たちに下さる福音です。
ヨブは「わたしは知っている。あなたはわたしを死の国へ・・連れ戻そうとなさっている」(23)と言いますが、神の最後の御手を知りません。それを待つのが信仰です。主が十字架で「わが神、わが神」と叫ばれたように、主ご自身が「塵芥に等しい者」となられた。それに引き換え、私たちはどうでしょうか。元をただせば塵から生じたものです。にもかかわらず、威張って主を十字架にかけているのです。何を誇っているのでしょうか。
主のお姿に目を留めましょう。その主の痛みと復活が、私たちに命をくださるのです。私たちも、静まって主を畏れ、主の慈しみを待ち望みましょう。