今週の説教要旨

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2013年6月2日

「あがないしろを得た」 

榎本栄次 牧師

聖書 ヨブ記 33章 1-33節

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)この御言葉は、短い言葉の中に福音の本質が言い尽くされています。福音とは、神からの喜ばしいおとずれ(知らせ)であり、それは絶望の中にいる者がキリストの十字架と復活により、あがない出されたという救いの知らせです。「死に至る病」(キェルケゴール)のどん底にあって、神よりの贖いの知らせを受けることが福音です。

  

 若者エリフは、先輩たちとは違った言葉をヨブに投げかけます。祝福の中に暮らしていたヨブでしたが、突然の辛酸に見舞われ苦難のどん底で、そのことの意味を問います。3人の友人たちは「ヨブが罪を犯したから」という説教をぶつけますが、ヨブには納得がいきません。「私は潔白で罪を犯していない。わたしは清く、とがめられる理由はない」(9)と主張します。ヨブは自分の主張を曲げず、友人たちは言う言葉を無くして黙ってしまいました。エリフは先輩たちのふがいなさに怒り、ヨブに対して思いをぶつけました。「自分に罪はない」と言う、そのヨブに対してエリフは、「ここにあなたの過ちがある」と指摘します。(12)

  

 ヨブは友人たちとの論争の中で、このような苦しみに遭わなければならない理由は自分にはなく、神の側にあるのだと言って譲りませんでした。これはヨブの不信仰と言うより、むしろ誠実さとも言えるでしょう。しかし、その「正しさ」をもって神の前に出ることはできないのです。神の前では、ヨブもまた「土から取られたひとかけらのものにすぎない」(6)存在でした。ヨブもそのことについてはよく心得ていました。心得ていることは、自分の側のことであり、その限りにおいて、救いにはならず、絶望のままです。

  

 エリフはここで、神の側からの一方的な救いの必要性を説きます。

  

 「苦難に責められて横たわる人があるとする。骨のうずきは耐えることなく、命はパンをいとい、魂は好みの食べ物をすらいとう。・・滅亡に、命はそれを奪うものに近づいてゆく」(19-22)これはまさにヨブの今の姿です。ここで彼を癒すのはだれでしょうか。エリフは言います。このような苦難の中で、「千人に一人でもこの人のために執り成し、その正しさを示すために遣わされた御使いがあり、彼を憐れんで『この人を免除し、滅亡に落とさないでください。代償を見つけて来ました』と言ってくれる人が現れるなら、彼の肉は新たにされて、若者よりも健やかになり、再び若いときのようになるであろう」(23-25)と言うのです。ここで言われている「代償を見つけてきました」というところは口語訳聖書では、「あがないしろを得た」と表現しています。すなわち被告席に置かれ、死刑宣告を受けるしかない者が、「その人の代償はもう払われている。あがないしろを得た」「その人は悪くない。」と言ってくれる人が現れたらどうでしょう。その時彼は若者のように健やかになるのです。彼を救うのはそれしかないのです。ヨブ記の問いが、解決されるのはヨブの正しさではない。神の側からの「あがないしろ」その前に沈黙することです。それはまさにイエス・キリストにおいて実現したのです。どんな人も弁護者(あがないしろ)なしには神様の前に出ることはできません。そこには深い絶望があるのみです。それは自分で自分のことを持ち上げられないような事実です。その畏れと自己理解をもって初めてキリストを必要とする救いの門が開かれるのです。神はその様な私たちに、イエス・キリストという唯一無比なる独り子なる「あがないしろ」を与えられたのです。そこで「このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」(コリント一、1:30)

  

 裁き主であられる神ご自身が味方になってくださる。だから今、「沈黙せよ」(33)と言うのです。世界中の人から「こいつはとんでもない奴で、大嫌いだ」と言われ、ただ黙するしかないとき、静かに私の前に立ち、「いやそうではない、この人の欠けたところは私が弁償します。私はこの人の味方をしますから。この人にも良いところがあるんですよ」と言ってくださる。死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(コリント一、15:54,55)

      

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
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