2013年6月23日
「罪なき人の死」
榎本栄次 牧師
聖書 ヨブ記 36章 1-33節
人の不幸や、欠陥と出会ったとき、私たちはどのような態度をとるでしょうか。「ああ、あの人は神に裁かれているのだ」というように思うでしょうか。
また謂われなき罪をかぶせられ、しかもそのために思い罰を受けることになったとすればどうでしょうか。誰かが、「それはあなたの罪のせいよ」、などと言うなら、そんな不条理があってなるものかと抗議するでしょう。その抗議に対して、宗教的な言葉であれこれと説明されたとしても納得のいくものではありません。そのようなことは、かえって反感を抱き、納得できるものではありませんし、諦めることもできません。
神の独り子であるイエス・キリストは、罪なき方であられたのに罪人とされ、十字架におかかりになりました。それに抵抗せず、黙って受難に耐え抜かれました。死に至るまで。人々はその様子を見て「彼は罪人の頭だ」と思いました。最大の不条理と言えるでしょう。私たちはその不条理に憤り、抗議をしましょうか。しかしそれが私の身代わりであったとしたらどうでしょうか。
若者エリフは、自分の不幸について納得のいかないヨブに対して、罪を宣告することを神の御心と確信し、その使命感に燃え語ります。「捕らわれの身となって足枷をはめられ、苦悩の縄に縛られている人があれば、その行いを指摘し、その罪の重さを指し示される。その耳を開いて戒め、悪い行いを改めるように諭される」(36:8,9)とヨブの悔い改めを迫ります。それを知らせることが自分の神から委ねられた唯一の責任であることを疑いません。「もし、これに耳を傾けて従うなら、彼らはその年月を恵みのうちに全うすることができる。しかし、これに耳を傾けなければ、死の川を渡り、愚か者のまま息絶える」(11,12)と言います。すなわち、あなたがいま経験している苦難は、あなたの罪の結果であり、その神は正しい。早く悔い改めて悪を離れなさい。そうすると幸せが来る。そうしないと「彼らの魂は若いうちに死を迎え、命は神殿男娼のように短い」(14)と決めつけます。エリフの説教はヨブの事実に立つものではありません。伝統的教義から解釈している説教です。その限りにおいて、エリフもまた、他の3人のヨブの友人と同じところに立っていると言わざるを得ません。ですからその熱心は、神に訊ね、神から出た者ではありません。神から出たものでない教義は、命はなく、弱い人を裁き、瀕死の者を死なせ、結局キリストを十字架に架けることにつながるのです。
今苦しんでいる人に出会って、健康なものが信仰の教義で裁くことは宗教的犯罪と言えるでしょう。律法学者やファリサイ人のことを、主イエスは「あなたたち偽善者は不幸だ」(マタイ23)と厳しく非難しています。そこでは事実に立たず、人への愛と神への信仰が無くて、律法の形式だけを問題にしているからです。神の贖いを必要としない宗教は、キリストを必要とせず、ただの組織体でしかなくなるでしょう。
彼らはキリストの十字架を見て、「神に打たれたのだ」と思い、キリストに唾をはきかけ、主をなじっていたのです。「その打たれた傷によって私たちが癒された」(イザヤ53)ということを知らずに。「罪のない人の死」によって私たちは命を得ているのです。
北海道の「べてるの家」での合言葉に「安心して絶望する」というのがあるそうです。諦めるのです。なおそうとしない。その対策を練るそうです。彼らは決して「がんばらない」ことを心掛けているそうです。現代の奇跡があります。
イエス・キリストは私たちの罪のために、「こうでなければならない」という一切の建て前を捨てて下さった。「罪なき人の死」によって癒されました。そこでこそ良い諦めができます。神に委ねることが見えてくるのです。