今週の説教要旨

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2013年7月14日

「神の御業を見よ」 

榎本栄次 牧師

聖書 ヨブ記 36章 1-33節

 私たちは、神様に向かって生きるように造られています。「神は愛です」(ヨハネ一 4:16)とあるように人は本来、神の愛の救済史に向かうようにされており、それにつながることこそが救いであり、そこから反れることが罪となります。

 「今、光は見えないが、それは雲のかなたで輝いている」(21)とエリフが言います。自分が納得いくときには、神の存在が実感できて、それが覆われて分からなくなると信じられなくなります。しかしその時にも神の光はしっかりと輝いています。雲に覆われて光が見えなくなるときにも、雲の上には変わらぬ太陽が燦々と輝いているのです。私たちの状態がどんなに苦しい状態におかれていても、神の愛は変わらずに注がれています。どんな時にも神様はしっかりと光り輝いています。

 「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」(詩編19:1)とありますが、エリフはヨブに大自然の法則を示しながら、「神の御業を見よ」と奨めます。大自然を見て神の存在を知ることは人の知恵と言えるでしょう。その自然が自分たちにとって都合のいいものである限り、よく理解し、受け入れることができますが、そのようなつまずきのない都合のいい「神」というのは、神を見えなくしてしまいます。自分の家だけの幸せばかり考えていると、神さまのことを忘れ、結局、家庭も自分も見失ってしまうのです。

 エリフは自然の中から神の力を示し、ヨブの傲慢を厳しく指摘します。彼は苦難の意味を悪人に対する懲罰にのみあるのではなく、義人に対する懲らしめであり、また警告であると見ます。善良な人間の自己満足、そこに潜む傲慢は罪への序曲です。「苦しんだことのない人々というものがどんなに我慢ならないものかは、人生があらゆる仕方で教えてくれる。挫折と悲哀こそ、人間がその兄弟たちに共感し、交わるためのパスポートである」(ゴルディス)。

 私たちの住んでいる日本は、自然環境に恵まれており、それとの調和が伝統的な自然観です。自然は人間に対立するものではなく、むしろ自然と人間とは一体になるものと考えられてきました。そのために、周りとうまくやっていくこと、じっとしていること、現実肯定が一般的な体質となっています。それは自分に必要な物があるのが当然であり、つくり出したり、契約したりするものではありませんでした。じっとしていればいいのです。しかしそれが根本から崩れ去る時がくる。自然が恐ろしい敵となる時がある。とんでもないことが起きるときです。神ご自身が私たちをそこに導くのです。その時どうするのでしょうか。これこそがヨブの問いでもあります。

 ヨブ記に現れている自然は、人間にとって親和的なものであるよりは、むしろ荒々しい、時には冷酷なものです。「懲らしめのためにも、大地のためにも」(13)神は「人の手の業をすべて封じ込め、すべての人間に御業を認めさせられる」(7)のです。繁栄していたヨブの財産を奪い、家族を破壊し、健康を奪うのです。このように人間と、激しく対立する自然とどのように親和することができるかというのがヨブ記に隠されたテーマです。人間と自然との親和を成り立たせるのは、自然の法則によるのではなく、神との契約によるのです。

 この時になって始めて神の方に向くのです。それまで自分を中心に物事を考えていた者が、方向を転じて神の方に向かうのです。そして人は人となるのです。病気になった。試験に失敗した。会社がつぶれた、こういうことを通して神に向かうのです。そして本当の夫婦になり、本当の信仰者としての祈りが始まるのです。人間は創造者・保持者である神との契約関係に立つとき、初めて自然と和らぐことができるのです。神と和らぐこと、神の御業を見ることです。そのことを通して自然とも和らぐことができ、自己を受け入れることができるようになります。

 使徒パウロの救済論においては、人類の救済にとどまらず、同時に被造物全体(自然)の救済をも含むのです。人間の罪は単に人間における連帯関係をもつだけでなく、自然界との連帯関係も持つのです。(ローマ8:19-22)そこにある神の業に目をとめましょう。

      

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
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