今週の説教要旨

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2013年7月21日

「嵐の中から」 

榎本栄次 牧師

ヨブ記 38章 1-41節

榎本栄次 牧師

 教会の主人公はキリストです。教会は神の聖霊によって成り立っています。有名人や篤志家または政党や同好会と違います。それを成り立たせているものは人ではなく、神さまです。主イエスが復活の後天に昇られましたが、最後に弟子に言い残された言葉は、「高い所からの力に覆われるまでは、都に留まっていなさい」(ルカ24:29)ということでした。迫害に怯える情けない群でしたが、主のこの言葉に従ってエルサレムに留まっていました。その彼らに嵐の中から神の聖霊が降ったのでした。これがペンテコステ(聖霊降臨)の出来事です。教会の根拠はここにあります。

 長いヨブと友人との論争は37章で終わりました。ヨブは譲らない。友人たちも説を曲げようとはしません。両者の対立はどこまでも平行線で治まりそうにありませんでした。突然、ヨブの身を襲った不幸ですが、ヨブの友人たちは、それを巡って正しい解釈や説明をしようとするのですが、すればするほど矛盾が増すばかりでした。人にとってその不幸そのものよりも、その不条理について苦しむのです。「なぜ」と問いつつヨブは苦しみのどん底で神に答えを求めました。人はその苦しみの中で、その回避よりもその意味を問うのです。

 神はついに、ヨブの前に御自身を現され、「嵐の中からヨブに答えて仰せになった」(1)のです。神は今まで沈黙していたが、問い続けるヨブを無視していたわけではありません。この神の沈黙の時が信仰の養いの時でした。「嵐の中」は神の顕現に伴う現象です。(エゼキエル1:4、ゼカリア書9:14、使徒言行録2:1以下)圧倒的な強さによって、神はヨブをねじ伏せるように捕らえたのです。全力を傾けて、渾身の力を振り絞って自ら真ん中に進み出られた。(バルト)自分の譲れない主張や立場、これを譲るくらいなら死んだ方がましと思うほどのものがあるでしょう。自分に正直になればなるほど、妥協のないどつぼにはまることに成りかねません。そのようなヨブを納得させるものは、この地上には何もありませんでした。神さまに任せるほかありません。任せることのできる相手がいてくださることは何と幸せなことでしょう。自分でもない、相手でもない、どこにも解決の道が無くなった四面楚歌のときに、天の空を仰ぐのです。神さまに訴えることができるのは、高いところからの力、神の側からの働きかけのみが説得力を持つのでした。神は「嵐の中から」ヨブに向かって「男らしく、腰に帯をせよ」(3)と語りかけられます。今の苦難を責任を持って受け止めなさいと言われます。この神の語りかけによりそれが可能になります。神は私たちが苦難を受ける時、いい加減な姿勢で臨まれることはなく、どんな時にも全存在をかけて私たちの前に立たれ、私たちに対して渾身の力を振り絞って臨まれます。

 神はヨブを連れて、星座、天上、地上の全てを見せて「あなたはこれらを知っているか」と問われます。神はこの世界を創造されました。それは無機質な創造ではなく深い愛を持って創られたのです。「神はお作りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)とあるように神はそれらを良しとされました。神の肯定です。

 今治教会のキリスト者で、戦後東大の総長をされた矢内原忠雄は次のように言っている。「神はヨブを誘って郊外に連れ出し自然の美の中に、神と彼とただ二人だけで散歩を試みさせ給うたのである。神はこれらと山と川、空と地、鳥と獣をつくり給うたのである。神は創造主として、その創造し給うた者の一つ一つに愛着をもち給う。いわんや人においてをや・・・神の心はヨブを愛して居り給う」。(「ヨブ記の研究」矢内原忠雄)

 ヨブを納得させるものは、神の側からの一方的な力による愛の語りかけです。彼はそれによって新しい真の命を得たのです。今、教会に求められるのは、その利口さでも豊かさでもなく、また問題なのはその貧しさでも弱さでもありません。そこに聖霊を受けることです。そこに教会の基本があるのです。




       

証し「世光教会の皆さんへ」 

       

盧京子(ノ・キョンジャ)姉

 1956年神様は私をこの世に授けました。

 生まれた時におぎゃあと泣かなかった。その時、私は病院ではなく、家でお産婆さんが取り上げてくれました。同時に元気な子ではありませんでした。産声をあげない赤ちゃんであり、彼女がほほを軽く叩いたら小さな声で泣きました。8ヶ月~9ヶ月ずうっと黄疸が引きません。10ヶ月経っても首が座りません。近所の人達が母に、この子病院に連れて行った方がいいと母に告げました。母は病院に連れて行くことにしました。診断結果は脳性まひと言われました。その時、薬じゃなく身体を動かす事と判断されました。私が物心ついた時、大阪から京都まで兄とマッサージに行っていたんです。

 

 病院からの紹介で訓練所に行くことになりました。母と二人で遊びからの訓練でした。

 

 グー、チョキ、パーをどれだけ早くやれるか、むすんでひらいて、ごんべさんの赤ちゃんがかぜをひいたをどれだけ早くできるか、足の訓練はマッサージをしたり、親子で立ったり座ったり。この時はまだ楽しかったのですが。

 

 ある医者は私の足に異常があると気づいた。レントゲンを撮ってみたら右足の股関節が亜脱臼していたのですがこの時はまぁ亜脱臼ぐらいなんともないと判断されました。これが悲劇を生んだのです。

 

 父の仕事は鉄鋼所で高度経済成長の中で、鉄1キロ3万円で取引されていたのです。だからお金には不自由していません。鉄を崩せば1日30万になり、私達、家族はなに不自由なく生活していましたが、どうしても両親には私が女の子だから色んな服を着せてみたい、着物を買って着さして歩いている姿を見てみたいと思って訓練を強要しました。私はこんな辛い事する為に生まれてきたの?と思いました。

 

 私に2歳下の弟ができました。母は私のこと何かより、まだ産まれて間もない弟の面倒を見ました。そうしている間は、母は私の身体を見る事は出来ません。自分でしなさいという母はどれだけ辛かったでしょう。母乳で私達兄弟3人は育てられました。弟が2歳になったら、近所の人の所にお昼間だけ面倒を見てもらいました。私は、また母と大阪の訓練所へ通い出しました。ここは訓練の先生が付き、足のマッサージとか足を鍛えるブリッチや平行棒を使って歩く練習を教えられました。私はこの時何不自由ないと言えば嘘になります。しかし何故両親は私に歩くことを強要するのか分かりません。ありのままの私を愛して欲しかったです。とにかく親は花嫁衣装で歩いている姿を見たかったのでしょう。そして幸せになって欲しかったと思います。

 

 でも、神様は私をこの世に授けたのは、そういう平凡な生活をさせる事ではなかったと私は考えます。障害や在日韓国人や差別される側の訓練を、私にお与えになられたのです。

 神様は、ずうっと私のそばに付いていらっしゃいました。その事に気がついたのが54歳の秋でした。引っ越してこられたイギリスの牧師さんの一家のおかげです。私は、何故かあの一家に吸い寄せられる様に、イエス様のことを教えて下さいと言いました。何が私をそうさせたのか分かりませんが、私はキリスト教に入ることになりました。ずっと無宗教でいたいと思っていました。神様はいらっしゃると信じていただけです。私は霊感が強かったので、いつか神様が私を呼んでくれると思っていましたが、それが牧師さん一家だったのです。それから一週間に一回毎週水曜日にミサをしてくれて、イエス様の存在がわかるようになりました。どんどん水曜日は人が増えて仲間ができ、嬉しかったです。今は私の部屋でやっていいます。教会へ行きたいと思って彼に相談すると最初小倉の教会へ連れて行ってくれました。朝早くから出かける事が出来ません、と言えば何時がいいか聞かれ11時までにはつきますと言えばそれで話がつきました。もう少し近い所がいいと思って部屋から5分の所の向島教会に通い出しましたが、神に仕える牧師さんの間で私の考えと違うと思いました。どうしても教会に行きたいので探した所、世光教会の牧師さんと話したら来てもいいと言われました。

 

 信仰は一人でも出来ますが仲間がいて色んな話をすることで楽しくなります。

 

 私の中に神様はずっと居たのです。神様からの障害は私へのプレゼントだったと私は考えます。それはこの立場で産まれる人は大変少ないのです。韓国人であっても障害者でない、障害者であっても韓国人でないという人が多いのです。でも神様はこれを乗り越えられるものにしかお与えにならない。と考えたら神様のイタズラかもしれません。でも、

 ここでこうして行きたいとこにも行けて、やりたい事もできて、美味しいものが食べられてそれだけで十分幸せなのです。世の中にはお金お金と言っている不幸な人がどれだけいるのでしょう。地位とか名誉とか欲しがる人が多いです。私は障害を楽しんでいます。

 

 それだけでいいじゃありませんか。

 

 今は教会に行くことが楽しくて仕方ありません。死とは魂が抜け、お迎えにこられ、その霊の言うとおりに天国へ行くことです。だから残された人は、悲しまずに喜んであげてください。天国へ上がったのだ、神様のそばに行ったのだと思ってください。日常茶飯事に人はそうやって神様のそばにいけるのですよ。なのにさみしいとか、悲しいとかというネガティブなことを思っていたのでは、きっとその魂は天国へ行けないでしょう。この世でやりたいことをやっていくのですから、それをとめるような行為はしないでください。それに、その人がいないと生きていけないわけじゃありません。その人の分まで生きていくことのほうが、きっと喜んでくれます。解放させてあげてください。でも思い出だけは、大事にしてあげてください。

 

 このことが言いたかったから、私の昔のことよりも・・・。

 

盧京子

      

日本基督教団 世光教会のご案内

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世光教会では、結婚式をはじめ、キリスト教による告別式など冠婚葬祭も心をこめておこなっています。

聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。