今週の説教要旨

HOME   >  今週の説教要旨

2013年9月15日                                     

「悔い改め」 

榎本 栄次 牧師

ヨブ記 42章1-17節

人が本当の喜びを感じる時は、苦労の有る無しではなく、その意義の有無でしょう。
 いよいよヨブ記の終わりになりました。人間の幸せと信仰についての問いがヨブ記のテーマです。何故信仰するのか、それは自分が幸せになるための功利主義ではないか。サタンは神に問いかけます。「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか」(1:9)。もし不幸になるとしたら誰も神のことなど信じもしないだろうというのが、サタンの主張です。果たしてそうか試してみようと、神とサタンとのやりとりでした。長いヨブ記の苦悶ですが、いつもそこに焦点を当てて繰り返し問うています。それはヨブだけの問いではなく、今日の私たち自身の問題です。自分の幸せと信仰は決して無縁のものではありません。しかしそこにとどまっている限り、本当の救いはないのです。だから時として、サタンではなく神ご自身が私たちを苦難という試みの場に引きずり出されます。そこで神との新しい出会いの場が始まります。使徒パウロは「わたしはキリストのために愚か者となっています。あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。・・わたしたちは世の屑、すべてのものの滓(かす)とされています」(コリント4:10-13)と言っています。因果応報の教義は、結局自分の幸せが基準になっていて、そこはサタンの支配するところです。
 ヨブは自分の苦難についての問いを神にぶつけますが、それに対して、友人たちは伝統的な宗教観で説明しようとします。「あなたの苦難の原因はあなたの犯した罪にある。早く神に謝り 悔い改めよ」と言うことでした。しかしヨブは納得できません。初めは同情していましたが、そのようなヨブを傲慢で、不信仰者と決めつけるのでした。今日の聖書で、一つのポイントは、この三人の友人のことを神が激しく怒っていることです。「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ」(7)と。とかく正論が人を殺す結果になるからです。
一方、神は「嵐の中から」ヨブに答えられたのですが、それは答えではなく、ヨブへの問いでした。人間の合理的な思考や知恵をはるかに超えた神の力と計画を示され、「これは何者か」と問われます。またベヘモット(かば)やレビヤタン(わに)のような混沌を「レビヤタンを鉤にかけて引き上げ、その舌を縄で捕えて、屈服させることができるか」(40:25)と問われました。神はそれらを支配下におき、これらと戯れさえするお方です。
 「レビヤタンと戯れる」という話は、先週の伝道礼拝で話してくださった「べてるの家」の向谷地さんと伊藤さんとのやりとりを思い出します。「安心して絶望する」という話は、真に驚くべき言葉です。罪の結果としての苦しみではなく、そこにある新しい命の意味を受け止める信仰でした。あれは作り話ではなく、現実の話です。
 自分が悲劇の中心であり、納得のいかないことを問い続けていたヨブでしたが、神はそのことをよくご存じでありながら、ヨブを愛し、全能の力と愛をもってヨブの前に現れたのです。ここにヨブの全ての解決がありました。そして「それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(6)と告白したのです。「悔い改め」とはメタノイアと言って、方向転換を意味します。これまで自分中心に考えていたことを神様を中心に考え始めることを内容とします。自分ががんばって神の国に入るというのではなく、神の恵みによって入れていただくのです。そこに立つことを悔い改めと言います。自分中心に考えていたときには分からなかったけれども神様を中心にして考えるように切り換えることをコペルニクス的転換といい、それを悔い改めと言うのです。「そもそも宗教とは人間の不幸を解決する即効薬・・・の如きものであろうか。聖書の信仰はむしろ我々に人間の問題を一層深く掘り下げさせ、その焦点を一層明確にさせるものではないか」(浅野順一)神の大いなる恵みの前で、私たちは自分の罪に気づかされ、深い悔い改めへと導かれ大きな喜びに満たされるのです。その自己発見こそがわたしたちの存在意義です。


音声をお聞きいただけます

2013/9/15 悔い改め

日本基督教団 世光教会のご案内

世光教会の礼拝に参加をしてみたいとお考えの方、キリスト教会は、キリスト教信者だけが集うところではありません。
厳かな雰囲気と温かみのある空間で、清々しい祈りの時間をお持ちいただけます。
小さなお子様づれでも安心してご参加ください。
また、信仰のこと、心に抱えている悩みごとなど相談したいことがございましたらご遠慮なくおいで下さい。
いつでも、皆さまのお越しを、心から歓迎いたします。
世光教会では、結婚式をはじめ、キリスト教による告別式など冠婚葬祭も心をこめておこなっています。

聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。