今週の説教要旨

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2013年10月27日

「強情な雌牛」 

榎本栄次 牧師

ホセア書 4章

榎本栄次 牧師

 ホセアは自分と淫行の妻との関係を神に対するイスラエルの反逆に結びつけて預言します。ホセアは「主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。主はこの国の住民を告発される」と告げています。これは神が法廷の場にイスラエルを引きずり出すということです。

 神が「この国を告発する」と言うとき、私たちは自分をどこにおいてこの言葉を聞くでしょうか。原告の告発者の側か、あるいは傍聴席でしょうか。しかし主はそれを許されません。私自身を被告席に引きずり出して告発するというのです。ここで説教をしている私・祭司(牧師)もけっして例外ではありません。ホセアは言います。「この国には、誠実さも慈しみも神を知ることもないからだ。呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり、流血に流血が続いている。それ故この地は渇き、そこに住む者は皆、衰え果て、野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃される」と。

 当時のイスラエルは祭司の数が増し、力が大きくなるに連れて、益々主に罪を犯すようになっていました。「彼らはわが民の罪を食い物にした」。祭司が民に偶像礼拝を勧めてそこから生計を得ていました。また貧しく弱い人たちを踏みつけ、彼らの過ちを黙認しその分け前を取っていたということです。(アモス8:4-6)彼らは小さい存在に目を止めず、目立つこと大きなことに注目し、権力におもねっていました。偶像礼拝に走って神を忘れ、権威主義と形式主義が宗教の本道となっていました。そのことに民も、祭司も気づかず、指摘されても気づこうとしませんでした。

 神の民として問われること、それはまず第一に「誠実さ」です。どうでしょうか。私たちは誠実でしょうか。弱い人たちが幸せに安心して生活できる環境を作り出しているでしょうか。そのことに努力しているでしょうか。他の国に対してはどうでしょうか。隣の国から「誠実な国」と見られているでしょうか。国家の犯した罪を誠実に認識できているでしょうか。そんなことは関係ないでしょうか。私たちの身の回りについてどうでしょうか。夫婦の間で誠実であり得ているでしょうか。天下・国家のことについては立派なことが言えるけれども、身の回りのことで不誠実になっていないでしょうか。お茶碗一つ洗うことに権威を失うなどと思っていないでしょうか。いすを片付けること、挨拶すること、小さいことですができていないことが多くあるのです。

 第一に「慈しみ」はどうでしょうか。主は「憐み深い人々は幸いである」(マタイ5:7)と言われました。強い者の側に立とうとしていないでしょうか。皆からほめられてばかりいようとするのは、憐み深い人の姿ではありません。自分ができていないことを人に要求していないでしょうか。理想や正解を振りかざして現実を見ないようにしていないでしょうか。下の方で一生懸命頑張っている人を励まし支えているでしょうか。

 第三に「神を知ること」です。私たちはどこで神を知るのでしょうか。聖書の原典からでしょうか。清く静かな瞑想の場でしょうか。そうではありません。神さまと一緒に生きることです。アブラハムがしたように、主の呼び出しに応え、旅に出かけるのです。そこで楽しみまた苦しむことです。慰められたり、自分の罪に泣くことから始まります。夫婦が一体となるのも同様でしょう。豊かさを共有しつつ、また互いの弱さを補い、それを克服するからです。それが知るということです。

       

 反対に、神の民としてあってはならないこと。それは呪いや欺きです。騙し合いのような外交がこの国に見られたのです。それを知恵と思い違いしてしまうのです。そこから子どもたちも騙し合う。心ない教師の一言が子どもの心をどれほど苦しめるでしょうか。それは殺人と同じ罪であることを忘れてはいけません。盗み、姦淫、これらがゲーム感覚で蔓延していました。しかしそれらは私と決して無縁ではありません。

       

 神は祭司(牧師)たちに向かって「もはや私の祭司とはしない」と告発します。そうです。これらのことは、私の中にある罪との深い関わりの中で起こっているのです。ホセアはまた、罪を悔い改めようとしない民を「強情な雌牛」と言う。雌牛はおびえると動かなくなります。引いても押しても動かない、強情です。その姿は罪を認めない私たちの姿です。主を忘れ、罪を悔いない「悟りのない民は滅びる」のです。自分を守ろうとして動かず滅びていきます。主の愛に戻りましょう。

      

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。