今週の説教要旨

HOME  >  説教要旨  >  2013年11月3日

2013年11月3日

「神を知る人」 

榎本栄次 牧師

ホセア書 5章

 本日は、永眠者追悼礼拝を守っています。先達たちのお働きに感謝し、主の祝福と平安を祈りましょう。私たちの身の回りに起きる「悲しみ」に戸惑いを感じることが少なくありません。使徒パウロは「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の苦しみは死をもたらします」(コリントⅡ、7:10)と奨めています。悲しみに2種類あるのではありいません。それを神のところへ持っていくか、世の悲しみとするかで違ってくるのです。ある時には神様は私たちの敵のようになって、立ちはだかられます。私たちが神に帰るためです。

 ホセア書5章は、人間の罪(的はずれ)を深く掘り下げた預言です。国家がそのあるべき姿を離れて罪を犯している時、その罪を激しく追及するのですが、神が獅子となってイスラエルに襲いかかるというのです。それは夫のもとを離れ他の男の所に走り姦淫する妻が、やがて男たちに捨てられて戻ってくるのを待つ夫に似ているというのです。ホセアは淫行の妻を決していい加減にはしない。落ちるところまで落ちなければ本心に立ち返れないから、妻が男に捨てられて、行くところがなくなり、悔い改めて自分の所に帰ってくるのを待ちます。

 ユダヤの国は、出エジプト以来「選民」とされた「神の民」でしたが、時代が進み一つの国のはずが北王国イスラエルと南王国ユダに分かれ互いにいがみ合っていました。北王国イスラエルは隣国アッシリアの脅威を取りのけるためにアラムと同盟を結びました。一方南の南王国ユダの王アハズはアッシリアに助けを求めます。そこで起きたのがシリア・エフライム戦争です。(b.c.733年)ホセアの住んでいたイスラエルは南のユダとアッシリアに挟まれ互いに分かれ争っていました。神をそっちのけにして自分たちの力を誇り、他を非難し欲望の虜になっていたのです。そして南も北もついに滅ぼされて、奴隷になってしまうのです。その原因は主の掟を破り、物質の快楽を求め、繁栄の中で罪に罪を重ね、神から離れて他の国に隷属して、良心を売り渡し、偶像に身をかがめたからでした。

 ホセアはこの事実の前で、「彼らは悪行のゆえに、神に帰ることができない。淫行の霊が彼らの中にあり、主を知り得ないからである」(4)と言います。彼らは神を知ることができない状態です。宗教儀式は盛んで、祭司も多くいるのですが、神を知ることができないのです。

 そこで神はどうされるか。彼らをどん底に落とされる。妥協のないどん底です。「わたしはエフライムに対して食い尽くす虫となり、ユダの家の骨の腐れとなる」(13)。また「わたしはエフライムに対して獅子となり、ユダの家には若獅子となる。わたしは引き裂いて去って行き、さらって行くが、救い出す者はいない」(14)。

 さて彼らはこの悲しみの中でどうするでしょうか。神を呪いましょうか。それとも自分たちの罪を悔いて神に立ち返るでしょうか。パウロの説く「御心に適った悲しみ」とは、その悲しみをきっかけに神に帰ることです。そこに悔い改めがあり、取り消されることのない救いがあります。それが神を知る民です。

       

 その時、ユダとエフライムは自分の罪に気づいて悔い改めて神のところに帰ってくるだろう。苦しみの中で悔い改めて神を求め、帰ってくるだろう。わたしはそこに行って待っていよう。(15)と言われるのです。どん底は暗闇です。しかしその暗闇は十字架の救いに繋がっているとすれば救いの時です。神を知る人は、知識人ではない。また罪を犯さない人でもない。悲しみに出会わないのでもありません。その悲しみや罪を神のところに持って行く人です。

       

 「IT(それ)と呼ばれた子」(デイヴ・ペルザー)という本があります。母親の虐待から逃れ、生き抜いた幼児期から少年期、成人になるまでの告白ノンフィクション物語です。どんなに厳しい状況に置かれても子どもには生きようとする生命力と意志があるということが証言されています。

      

日本基督教団 世光教会のご案内

世光教会の礼拝に参加をしてみたいとお考えの方、キリスト教会は、キリスト教信者だけが集うところではありません。
厳かな雰囲気と温かみのある空間で、清々しい祈りの時間をお持ちいただけます。
小さなお子様づれでも安心してご参加ください。
また、信仰のこと、心に抱えている悩みごとなど相談したいことがございましたらご遠慮なくおいで下さい。
いつでも、皆さまのお越しを、心から歓迎いたします。
世光教会では、結婚式をはじめ、キリスト教による告別式など冠婚葬祭も心をこめておこなっています。

聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。