今週の説教要旨

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2013年11月10日

「慈しみを喜ぶ」 

榎本栄次 牧師

聖書 ホセア書 6章

 今朝は、子ども祝福礼拝を守っています。幼子が神の祝福をいっぱい受けて、御心に適って成長してくれることを祈ります。救いの主は私たちの上辺をご覧になるのではなく、その心根、どん底を知り、そこから救い出される主です。主は「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではない。神を知ることであって焼き尽くすささげものではない」(ホセア6:6)と言われます。

 「目には目を、歯には歯を」は旧約の律法です。一見妥協のない機械的と思える言葉ですが、ここにも深い神の愛があります。上辺を繕っておけば甘い神は何とかしてくれる、と言うところには本当の悔い改めはありません。

 ホセア書6章は、「偽りの悔い改め」がテーマになっています。何かに躓き行き詰まった人が器用に立ち回り、「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。2日の後、主は我々を生かし、3日目に、立ち上がらせてくださる。」(1,2)ととても軽く安易です。そして「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。・・・」(3)と饒舌で調子のいいことを言います。その内容はきわめて浅い打算でしかありません。神さまより先に許しの座に着いているのです。

 主はその態度を見て喜ばない。「エフライムよ、わたしはお前をどうしたらよいのか」(4)ととまどっています。「お前たちの愛は朝の霧、すぐに消え失せる霧のようだ」(同)調子がいいというのでしょうか。自分の罪を簡単に認め、すぐに反省するのですが、神の言葉を聴こうとしない。悔い改めていないので、時が過ぎると元に戻ってしまうのです。信仰を教義や形式として捉え、正解を出せば済むと機械的に思ってしまうのです。そのような浅いところで神は私たちを絶対に許してはくださらない。それがまた神の慈しみです。

 「イスラエルの家に、恐るべきことをわたしは見た。そこでエフライムは姦淫をし、イスラエルは自分を汚した。ユダよ、お前にも刈り取られる時が定められている」(10,11)と言い返します。生きた王国イスラエルと南王国ユダは共に反目し相手を裁き合っていました。神はその両方に向かって妥協のない鉄槌を下します。「主を知ることを追い求めよう」などと宣教者のようなことを言っている場合ではないのです。自分が大きな代価を払って赦されなければならない存在であるのに、神さまの先に立って先導しているのです。「それゆえ、わたしは彼らを預言者たちによって切り倒し、わたしの口の言葉を持って滅ぼす」(5)と言われます。

 「この世のことはすべて〇か×に区別されるものではない。〇に近い△がいい」(鎌田實『〇に近い△を生きる』)というのは実に言い得て妙だと思います。そこに優しさがあるのではないでしょうか。神の愛は、〇か×かではないでしょう。慈しみと愛です。そこには命があります。この命が子どもを祝福するのです。

       

 救われがたい自分に出会うときがあります。それを絶望というのでしょう。キリスト教が救いの宗教であることは、その絶望を受容するのです。絶望が消えるのではない。許しは怒りがないと言うこととは違う。真理には争いが不可欠です。争いには清らかさがあります。自然にしていて、自動的に真理になっていくように私たちは造られていないようです。その向こうに妥協や慈しみ、愛の△があるでしょう。神が喜ばれるのは、「愛であっていけにえではない。神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」。祝福は、本来ならそのまま葬り去られても仕方のない×である者が、主の愛である〇によって思いがけず救い出された△、ここに福音があります。

       

 キリストの愛は、慈しみと愛であり、いけにえや理屈ではありません。我々はそこでは饒舌でなくてもいい。慈しみと愛を喜ぶだけです。主は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐みであっていけにえではない』・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)と言われます。

       

 罪人ザアカイは、「今日はぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19:1-)と言われた主の愛に触れ、命を得ました。これが慈しみです。誰でもいただける主の慈しみの愛に与りましょう。

      

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。