今週の説教要旨

HOME  >  説教要旨  >  2013年12月15日

2013年12月15日

「不思議なこと」 

榎本栄次 牧師

ホセア書 10章

 アドベントの第3週目に入りました。キリストの誕生を最初に目撃者した人たちは、野宿しながら羊の番をしていた羊飼いたちです。マタイによる福音書は東方の博士たち(異邦人)のことが紹介されています。どちらもユダヤ人を代表するような中心的な人物ではありません。「世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(コリント信徒への手紙1、1:28)とあるとおりです。ルカはその様子を「不思議な話」としています。福音には不思議なことがいっぱいあります。羊飼いたちはその不思議を受け止め、「さあ、見に行こう」と出かけたのでした。私たちが救いに入れられたことも不思議な出来事です。ワンダフルとは「ワンダー」すなわち不思議が「フル」いっぱいということです。不思議なことの目撃者こそワンダフル!

 アリストテレス(紀元前388-322)は、自然界の因果関係について目的因ということを説きました。それは自然界の現象には必ず目的があるというのです。たとえば雨が降るのは、海の水が蒸発して水蒸気となって雲になり、冷やされて水滴となって重力で落ちてくる。アリストテレスはそれに加えて木や草が成長するためにという意味を加えるのです。自然界の現象は偶然にそうなっているのではなく、ちゃんとした目的がある。雨が降るから草木が育つのではなく、草木が育つために雨が降るのです。その様に私たちが生活していることの中には神さまの大きな守りがあります。これほど大きな不思議はありません。

 イスラエルは選ばれて神の民とされました。神様はイスラエルを愛し、そこには幸せな愛の関係が成り立っていました。「エフライムは飼い馴らされた(従順な)雌の子牛。わたしは彼女に脱穀させるのを好んだ。わたしはその美しい首の傍らに来た。エフライムに働く支度をさせよう。ユダは耕し、ヤコブは鋤を引く。恵みの業をもたらす種を蒔け。愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて恵みの雨を注いでくださるように」(11,12)乳と蜜の流れる祝福に満ちた土地であり、神の民として愛され幸せなときでした。彼女たちにとってそこで働くことは苦痛ではなく、幸せそのものでした。

 ところが、イスラエルはその労苦を厭い、神に背き、楽をして不正におぼれることを求めたのです。その恵みを忘れて「悪を耕し、不正の刈り入れ、欺きの実を食べた。自分の力と勇者の数を頼りにした」(13)のです。彼らはバアルを拝み、それに従いました。「伸びたい放題(腐敗した)のブドウの木」となりました。自分の力で大きくなったように思い、したい放題をして、自分を滅ぼしていることに気づこうともしないのでした。それは造り主のことを忘れていることであり、滅びの世界にはいることでした。やがて切り取られ焼かれてしまう。誰も見向きもしないどん底に置かれることになります。人々に捨てられ、みじめなところに立たされます。その時に初めて気づくのです。そして主は、その時を待っておられます。

       

 預言者エゼキエルは言います。「私は悪人の死を喜ぶだろうか。と主は言われる。彼がその道から帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」(エゼキエル18:23)

 救い主のしるしは「飼い葉桶に寝かされた幼子」でした。どん底のイエスです。これほどの不思議はありません。「主を求めるときが来た」それが「主を求めるとき」(12)です。自分に何の資格がなくても失望することはありません。不思議なことです。私たちは今、茨の中にいるとしても、神のみ手を信頼して新しい畑を開墾しましょう。そうするならば神は、昨日までの私たちの不信仰な思いや行動を全て忘れたように、救いの雨を降らせてくださいます。ワンダフルです。

      

日本基督教団 世光教会のご案内

世光教会の礼拝に参加をしてみたいとお考えの方、キリスト教会は、キリスト教信者だけが集うところではありません。
厳かな雰囲気と温かみのある空間で、清々しい祈りの時間をお持ちいただけます。
小さなお子様づれでも安心してご参加ください。
また、信仰のこと、心に抱えている悩みごとなど相談したいことがございましたらご遠慮なくおいで下さい。
いつでも、皆さまのお越しを、心から歓迎いたします。
世光教会では、結婚式をはじめ、キリスト教による告別式など冠婚葬祭も心をこめておこなっています。

聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。