今週の説教要旨

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2014年1月5日

「罪からの救い」 

榎本栄次 牧師

ホセア書 12章

明けましておめでとうございます。今年も神さまに導かれつつ共に歩みましょう。
 ホセアは、イスラエルとユダの罪を告発します。「ユダはいまだに神から離れてさまよい、偶像を聖なるものとして信頼している。エフライムは・・欺瞞と暴虐を重ね、アッシリアと契約を結び、油をエジプトに貢ぐ」(1,2)と。神さまに信頼をおかずに、偶像や、外国の力に頼り、不正義の横行は(8以下)神との関係において的はずれな罪なのでした。
「エフライムは偽りをもって、イスラエルの家は欺きをもってわたしを取り巻いた。」(1)ここで言われる「偽り」とか「欺き」は神との関係において責められていることでした。神を神とせず、神をただの飾り物のようにし、大事なことは、外国にひれ伏し服従し、国内では弱い者を虐げ、不正義が横行することでした。イスラエルにとって神を神としないところに最大の罪がありました。この告発は一般的な罪の裁きではありません。神との関係において問われることです。それは裁きを目的にしたものではなく、救いに向かう告発です。
 ここでホセアは創世記のヤコブ物語を通して迫ります。ヤコブは生まれるときから我が強かった。双子で生まれたのですが、「兄(エソウ)のかかとをつかみ・・」出てきたのです。(創世記25:19-26)その名をヤコブ(押しのける)と言うように自己中心的で頑固者でした。負けず嫌いだったのでしょう。長じては兄の弱みにつけ込んで長子の特権を奪い、更に父を騙して祝福を横取りしたのでした。(同27:18-)自分のためには親をも欺く者でした。ヤコブは兄の怒りを逃れて旅に出、石を枕に野宿します。彼は泣き、主の助けを求めています。情けない思いで涙に濡れながら寝ていると夢を見たのでした。先端から天までに達する階段があって、天使たちがそこを上ったり下ったりしていました。後に彼は「祝さずば、離さず」と言って神と争いました。主が現れて、「わたしはあなたの父祖、アブラハムの神、イサクの神、主である」と宣言して、ヤコブを祝福しました。ヤコブは驚いて、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」そして畏れおののいた、とあります。この畏れが信仰です。「ここは何と畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家(ベテル)である。そうだここは天の門だ」と叫びました。悲嘆のどん底で聞く神の声、そこが神の家であり、天の門であることに築いたのです。罪のどん底が救いへの門でした。ヤコブは、自分の罪を思うときに怖ろしくて一歩も進むことができませんでした。どんなに多くの財産を持ったとしても、どんなに沢山の部下をえたとしても彼には畏れがありました。それは自分の中にある罪です。しかし、主の祝福をえたことによって、そこから神の約束の地へと進むことができたのです。
 これこそホセアの聴衆が向き合っていた現実でした。彼らはやがて住み慣れた土地を追われ、見知らぬ地へ奴隷として出て行かねばならないことを予感していました。それはイスラエルに対する神の裁きであり「我々が成したことによって、また、なさなかったことによって、思いと言葉においてあなたに罪を犯しました」と悔いて泣くのでした。そこで預言者は言います。あなたはもがき苦しんでいるが、神はあなたを見捨てておられない。罪に泣いて、主にすがりつくこと、神との関係をつなぐこと、そこでこそ神の救いがあるのだと諭します。更に加えて、「神はあなたを家に帰らせる」から「愛にすがりつきなさい」(ヘセド)と言うのです。これはまず神の民に対する愛から始まり、その愛が隣人に伝わることによって救いが全国民に続いているのです。それはまた「正義を保ち」「毎日神を待ち望む」ことへとつながります。
 このように神との関係がつながれるときに新しい時が開かれるから「神の元に立ち帰れ、愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め」を奨めます。主は罪を責めつつ、救いへと導いてくださいます。イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちは神との新しい関係に入れられたのです。それが罪からの救いです。この年も主につながって共に歩みましょう。

      

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