今週の説教要旨

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2014年5月11日 

「天上の礼拝」 

榎本 栄次 牧師

ヨハネ黙示録 4章1-11節

「国籍は天にあり」(フィリピ3:20)と言われます。この地上にあるものは仮の形であり、やがてみな神の御許に召されます。信仰者にとってはそれが終わりではなく、神様の支配される天においてこそ待たれているのです。そこでは神さまの下で天上の礼拝が整えられています。この世ではその日そのところを思いつつ生きるのが復活信仰であり、週末的な人生といえます。自分のことを自分の時だけで見ると分かりやすいのですが、それでは本当の自分を知ったことにはれません。
 ヨハネの黙示録は、黙示文学の方法を用いて現在生きている人たちへの書簡です。キリストへの信仰の故にローマ帝国の迫害に耐えていたキリスト者に宛てて書かれました。その内容は神に従う者への励ましであり、今の現実は非常に苦しいけれども、神がそれらをご存知であり、何一つ無駄なことはなく、やがて勝利に導かれるから、今の苦しみに耐えなさいというものです。次々と悲劇が続き、終わりそうにない苦しみ。その苦しみに耐えることのできるのは、それがどのような意味を持っているかと言うことを知らされることです。今の苦しみはやがて来る喜びを知らされるときに大きな喜びになるのです。
 ヨハネは、終末的な永い神の歴史の上に立って、その事実にしっかりと目を注ぎつつ、今を生きる信仰を鼓舞するものです。それは未来を示すことによって今を生きるためです。神は万物の創造者にして、その支配者であり、また歴史の主であられます。ここではその神に対する信仰と必ず起こる天上の礼拝の様子が描かれています。「碧玉や赤めのうのような方」「王座の周りにはエメラルドのような虹が輝いており、王座の周りには24人の聖人が座っています。稲妻、雷、7つのともし火・・水晶に似たガラスの海」獅子、雄牛、人間、鷲のような4つの生き物・・等々これらすべてのものが神の栄光を讃美している様子です。現在のエルサレムにはキリストの埋葬を記念する墳墓教会があり、ベツレヘムには生誕教会があります。それらはこの黙示録に記されているような宝石で飾られています。キリストの誕生のベツレヘムの馬小屋とはほど遠い雰囲気です。それらはどこか空しさを感じさせます。それは人の造ったものであり、神の座とは全く違ったものでしょう。
 ここのテーマは、厳しい現実にもかかわらず、神の御支配(天国)を仰ぎ見ながら生き抜くことです。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ人への手紙11:1)とあるように、信仰の事実は、あらゆる権威と冨を持ってしても飾れないような神の栄光への讃美と礼拝です。私たちは、この世でのことを目標とはしません。クリスチャンが総理大臣になったり、政治の中心人物になったり、人々からうらやましいと思われるような存在になることではないのです。この世のすべての権威がその前で「あなたこそ、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方です」と膝をかがめるのは、天上においてです。それを誤解してはいけません。
今日、地動説は当たり前のことですが、つい最近まで天動説すなわち太陽が地球の周りを回っていると考えられていました。しかしそれでは自分たちのことが理解できません。それと同じように自分のことを自分だけで把握しようとしても、本当の自分に出会えません。自己中心主義が人にとって迷惑なのではなく、自分にとってきわめて狭い視野に立つことになります。自分の国だけよければいいと考えていることが他から見てどんなに滑稽なことであるかが示されています。ゴミのこと、水のことなど自分の生きている間はどうでもいいことだ。自分にとって何の関係もないと考えますが、それは自分を知らないのです。
 ヨハネが見ていた現実は天上の礼拝に比べると、余りにも大きな隔たりがあります。クリスチャンと言うだけで命が脅かされていたのですから。結婚、就職、親戚付き合いすべてがおかしくなるのでした。それに耐えることができたのは、天上の礼拝を見ることができたからです。その置かれたところで天を仰ぎ、神の御支配を見、主を讃美することが肝心です。

音声をお聞きいただけます

2014/5/11 天上の礼拝

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。