今週の説教要旨

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2015年3月15日                              受難節第4主日

「許しの命令」 

榎本 栄次 牧師

ルカによる福音書5章17-26節

 主イエスに現わされた福音の神は、私たちに自由と責任を与え、希望の中に未来を指し示す方です。反面多くの場合、信仰の名で語られる「福音」は、人間を罪に定め、人をがんじがらめにしてはいないでしょうか。そこで語られる「救い」は、具体的ではなく、教義的で教派的で、自分たちの狭い枠の中に閉じこめることに躍起になっていないでしょうか。自分の力で何とかして立ち上がろうとする者に対して「汝の罪を知れ」と言い、「歩かなくてもいい。そのままで救われているのだから・・・」とその人をそこに「置い」たままにしてしまうのです。固定化と物質化が支配します。それは決してイエスの語った福音ではありません。福音とは私たちを自ら決断し行動できる者として自由にするものです。
ある日のこと、イエスが家の中で教えておられると、ファリサイ派の人々と律法学者たちがそこに座っていました。彼らは「ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである」。(17)ここにこの人たちのイエスに対する異常なまでの関心の深さが伺われます。たくさんの人たちがイエスの話を聞こうとして集まっていたのです。しかし彼らは必ずしも好意的な人ばかりではなく、むしろ「困った者だ」と思って監視する目的か好奇心で来ている人が多かったでしょう。
そこに中風を患っている人を床に乗せて運んできた男たちがいました。家の中に入ってイエスの前に置こうとしたのですが、群衆に阻まれて入れませんでした。イエスの周りは多くの群衆が囲んでいたからです。前にはファイ祭派の人たちが陣取っていて、「真面目」にその語られる言葉を一言も聞き逃すまいと、耳をそばだてていたことでしょう。その雰囲気は、病人の深刻さを寄せ付けません。「何をくだらないことを言っているのだ。今は偉い人たちが来ていて大事なときだ。お前たちの出る幕ではない」。それをとりまく群衆も同じで、寄りつくこともできません。ここに福音を阻む障害の現実があります。主の救いを求めるとき、直接まっすぐに行こうとしても邪魔が入るのです。それは周りの状況や人々であったり、自分たちの実力や見栄えや身分であったり、恐ろしく難しい理論であったり、学識であったりするでしょう。隣の家に行くのに地球を一周しなければならないような「理屈・論理」「事情」にぶつかるのです。そのためにみな途中で諦めてしまいます。
病人を運んできた人たちは諦めません。その家の屋根に上がって瓦をはがし、病人を床ごとつり降ろしたのです。それは誰の目から見ても迷惑であり、非常識であり、違反行為でしかありません。しかし主イエスは「その人たちの信仰を見て」「人よ、あなたの罪は赦された」と言いました。これを聞いた律法学者たちは「神を冒涜するこの男は何者だ。神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と考えました。罪については律法学者の専門分野です。これを聞き逃すわけにはいかないと思ったのでしょう。しかし主は、彼らに捕らわれず、中風の人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。(24)この人は神を賛美しながら家に帰っていきました。
今日私たちは様々なところにおいて自信を得てきています。宗教がそれに逆らって人間を罪の枠に閉じ込めようその限界を説きますが、至る所でその壁ははがされています。自分たちの力で歩み始めています。それこそ福音です。主は私たちを赦し、そこに出かけることを命じられます。この赦しの命令こそが福音です。


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2015/3/15 許しの命令

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。