今週の説教要旨

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2015年5月10日                                         復活節第6主日

「家と土台」 

榎本 栄次 牧師

ルカによる福音書6章46-49節

 ルカによる福音書によれば「山から下りて、平地にお立ちになった」(6:17)として、マタイによる福音書の「山上の説教」(マタイ5-7)とほぼ同じ内容のものを「平地の説教」としています。ここにはルカの日常生活と信仰の関係を意図したものが伺えます。イエスは、説教の冒頭で、貧しい人たち、今飢えている人たち、今泣いている人たちに語りかけています。それも「あなた」と二人称で語りかけています。それではこの貧しい人たち、飢えている人たち、泣いている人たちとはだれのことでしょうか。主イエスの説教は、一般の人に語りかける道徳律ではなく、イエスの言葉を聞いて従って来た目の前にいる人たちであり、イエスに従う弟子たちのことです。キリストに従ったが故に、彼ら自身が泣いている人でした。それはまた今日、聖書に聴く私たちに語りかけられているものです。私たちもまた一人称で聴くのです。
このことは「善いサマリヤ人のたとえ」(ルカ10:15-37)の理解についても言えるのではないでしょうか。強盗に襲われ、傷ついた人を助けたサマリヤ人の話ですが、助けた善いサマリヤ人は、イエスということ理解が普通です。それが間違いではないでしょうが、違った見方ができます。傷つき助けを求めているのがイエス様ご自身であるということです。渇く者、苦しむ者、虐げられている者と共に重荷を負われる方がイエス様です。そして主に従う弟子たちです。主イエスは常に受難者の側に身を置かれます。イエスの弟子たちもまたこのイエスと共に歩むのです。
「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」(46)と語られます。これこそ「平地の説教」です。信仰は行いを伴うものです。観念の世界で右往左往することではありません。それ故に平地は相対的であり、絶対ではありません。信仰の世界では絶対性が建前になるためにどうしても観念的に終わりがちです。観念の世界ではどんなことも可能になりますが、平地の現実ではそうはいきません。矛盾や失敗がついてきます。そこで主に出会うことがみ言葉を「行う」ことです。それが理に適っているかどうかは、それを試してみるとはっきりします。「行う」とは、イエスの言葉をこの地上で世俗化することです。そこには喜びと共に、貧しさや、飢えや苦しみが伴います。主イエスはそこが土台であると言われます。家を建てるのにはこの土台が必要です。それがなかったら何か困ったことが起きるとすぐに押し流されてしまいます。
 平地の説教の結びとして、家を建てる人のたとえが語られています。家はギリシャ語でオイコスといいます。これに関連して建てるはオイコドメオーと言い、世界人類をオイクメネーといいます。そこから世界教会会議が合い言葉にするエキュメニカル(教会一致運動)という言葉が生まれました。日本キリスト教団も1963年にこの流れの中から宣教基礎理論を生み出しました。昨今これが見直されようとしています。それは「そんなことしていたら伝道が進まない」という「反省」からくるものです。これこそ土台のない信仰と言わなければならないでしょう。み言葉に聞き、従おうとするとき、そこには失敗や貧しさや苦悩が伴うでしょう。それが平地の現実です。そこから逃げ出して、耳障りのいい「健康な人」だけの「立派な教会」を建てようとすることは、愚かなわざといわなければなりません。
 み言葉を聞いて行う人になりましょう。


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2015/5/10 家と土台

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。