今週の説教要旨

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2015年8月16日                            聖霊降臨節第13主日礼拝 

「自分の十字架を負って」 

榎本 栄次 牧師

ルカによる福音書  9章18-27節

「イエス・キリスト」とは「イエスは主なり」という意味で、キリスト教信仰の最も短い告白です。この世のすべての事柄がこの告白の上に築かれるという信仰です。それは自分を含め他のいかなるものもその前に置かない。すべてを捨ててキリストに頼ると言うことです、
「イエスがひとりで祈っておられた」とありますが(18)、イエスの公生涯は初めから終わりまで常に祈りに結びついています。受洗のときに祈られ(3:21)、12弟子を選ぶとき、徹夜の祈りをされ(6:12)、イエスの変貌のとき(9:29)、「主の祈り」を教えられたとき(11:1)、最後の晩餐のとき、「あなたがたの信仰がなくならないように祈った」(22:32)。オリブ山では、血の汗を流して祈られました。(22:39-44) そして最後に十字架上で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って息を引きとられました(23:46)。このように:主イエスは常に重要なことに直面したとき、祈りにおいて父なる神と交わり、その生涯を通されています。そして弟子たちにも祈りにおいて主に結びついているようにと教えられました。
ここで、「ひとりでの祈り」に続いて「弟子たち共にいた」とあり、矛盾を感じる表現になっていますが、弟子たちの信仰について深いとりなしの祈りをしていたということでしょう。主イエスは弟子たちの信仰が土台をしっかりとし、揺るぎのないものになるようにと願っておられました。そして「群衆はわたしを何者だと言っているか」という問いを弟子たちに投げかけられました。この問いは、信仰の根本であり、そこをしっかりと据えなければなりません。この問いに対して弟子たちは「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「昔の預言者」などといっている群衆の評判を紹介しました。
次いでイエスは「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」と問いました。信仰告白は他の人がどう言っているかではなく、「あなたはどう言うか」です。信仰において神との人格的関係が一人称で問われます。ペトロが「神からのメシアです」と答えました。これは「イエスは主なり」という信仰告白です。そこにこそキリスト者の立つ基本があります。同じ記事で、マタイによる福音書ではペトロに対して「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしは言っておく。あなたはペトロ、わたしはこの岩の上に教会を建てる」(マタイ16:17)と言われました。すなわち、教会はこの告白を土台とするのです。
そして主イエスは皆に自分の受難を告げた後、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。「自分を捨てる」ということと「わたしに従え」とは同じことになります。そして「自分の十字架を背負う」こともまた同じ内容になります。ここでわたしは「自分」というところに注意したいのです。捨てるべき自分と背負うべき自分です。
私たちはキリストに救いを求めるとき、自分のよいところ、輝かしいところを大きくしようとしていないでしょうか。「自分を捨て」とはキリストにつながることです。自分に頼ることを断ち切るのです。そして「自分の十字架を背負うこと」は死ぬ気で頑張るという意味ではなく、自分の嫌なところ自分の隠しておきたいところを背負ってキリストに着くことです。そこで「イエスは主なり」と告白することです。
自分の嫌なところをどこかに置いて、自分の力に頼り、かっこいいところばかり見せようとしていないでしょうか。そんな私たちに対して、主は、「自分の十字架を背負ってわたしに従ってきなさい」と命じられます。そこに救いがあるのです。この世で、自分の十字架を恥じることはキリストを恥とすることです。


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