今週の説教要旨

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2015年11月22日                     降誕前第5主日礼拝   収穫感謝 

「 天からのしるし 」 

榎本 栄次 牧師

ルカによる福音書   11章14-28節


 損・得でものを考えたくない。ましてや信仰に関することで、損得を考えるのはふさわしくないように思われます。しかし、主イエスは「人はたとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」(ルカ9:25)と言われています。長い人生を神の言葉に照らして考えること、そのような視点から損得を考えることには大きな意味があります。私たちにとって何が一番得かというと、神の言葉にとどまることです。それを守ることが何にも勝って大きな幸せといえます。私たちの人生が、自分のためだけにあるとするならば、その人生は死によって終わりを告げ、老いることは幸せを無くしていくことであり、その死はすべての終演を意味するでしょう。しかし人生が自分のためだけではなく、神の神国につながっているとすれば、その神の言葉にとどまることこそが、永遠の命に入れられることになります。それこそが大きな得をすることになります。
 主イエスの悪霊追放を見聞きしたとき、多くの人は「あれは悪霊の頭ベルゼブルの力によって悪霊を追い出しているのだ」と言い、またある人は「天からのしるし」を求めました。神からの人である何か証拠が欲しいのです。そんなとき、一人の女性が声高らかに叫びました。「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」と。するとイエスは言いました。「むしろ幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(11:27,28)。
 イエスが悪霊を追い出されると、それまで口の利けなかった人がものを言うようになりました。この働きは、イエスの宣教を広めるためとか、誰かにイエスの権威を示すためではありません。そこに一人の苦悩の中にある人がいるということです。そこから起きてきた出来事です。あらゆる手だてを尽くしても、その人の苦しみはなくなりません。人々はこの人を「悪霊にとりつかれた人」と決め、断定します。一種の予断と偏見がこの悩める人を「罪人」と断定してしまいます。
 身体的、精神的障害を持つ人々に対する宗教的差別はこの様にしておき、障害そのものよりも、そこから起きる2次、3次の障害の方に悩まされます。人々はそこに何の不思議も感じないままこの世の宗教的権威でこの人を黙らせ押さえつけていくのです。民族差別、部落差別、女性差別、職業差別などが同じようにして起きてくるのでしょう。
 イエスは障害の故に非人間化されていたこの人を前にして、ファリサイ人や律法学者やまたそれらの人の配下にある人々に対して「違う」と言い、いやしの業を遂行されました。そのいやしは、肉体的ないやしにとどまらず、その人と神との関係の回復になりました。こうして主イエスのいやしは、罪の赦しにつながり、分裂ではなく和解を、離反ではなく接近を回復し、神と人との和解を実現するのでした。12弟子の派遣にも見られるように「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権威をお授けになった」(ルカ9:1)のもこのためでした。
 私たちは悪霊に勝てません。一時きれいになったつもりでも、しばらくすれば前よりもひどくなっているのが現実でしょう。その悪霊の頭をベルゼブルと言います。だれもそれに勝つことはできません。しかしベルゼブルも絶対ではありません。それを追い払うことができるお方が来られました。その方こそ「天からのしるし」である主イエス・キリストです。キリストの御働きこそ「神の指」です。それに繋がるように私たちは遣わされているのです。
 ですから、神の言・福音を聞き、それに従うことがこの世において最も重要なことです。恵まれるということは血肉関係にあるのではなく、「神の言」との関係の中にこそあるのです。主イエスの母マリアはその乳房をイエスに吸わせ、「なんと恵まれたことか」と人々から尊敬され、親しまれますが、それ以上に幸せなことは「神に生きること」「言葉にとどまること」に他なりません。


日本基督教団 世光教会のご案内

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。