今週の説教要旨

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2015年12月13日                     待降節第3主日礼拝   Ⅲアドベント

「 御心でないなら 」 

榎本 栄次 牧師

ルカによる福音書   12章1-12節

 信仰は神の御心に自分を任せることです。乙女マリアのところに天使が現れ、キリストの受胎告知をします。それを聞いたマリアは「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と問うと、天使ガブリエルは「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる君、神の子と呼ばれる」と告げました。その言葉にマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。(ルカ1:26以下)医大な神の御心の前に、自分の都合も常識も保留してお任せしたのでした。信仰の世界は、すべてを超え包むのです。その御心にお任せするのです。
 主イエスは、弟子たちを宣教に遣わすにあたり、ファリサイ人のパン種(偽善)に注意するようにと忠告します。世の光として来られた主イエスは、現存する形式主義や権威主義、保守主義に捕らわれず、新しい世界を告げるために、弟子たちに何を基準にしてこれからの宣教に向かうべきかを示されました。
 まず初めに、「覆われているもの」について教えています。(4)つい「分からなければいい」という気持ちが支配しますが、神様はすべてをご存知です。見えないところをきれいにしていると、全体がきれいになります。神様の御心は覆われていますが、必ずこの歴史に現れます。パウロは「見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」(コリント二、4:18)と言いました。まず神のみこころを第一とするのです。
 次に、主イエスは弟子たちを「友人である」と呼び、恐れるなと励まします。この世の力を恐れず、真に恐れるべきものを恐れるように。旧約聖書では「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:4)とされています。そしてヨハネによる福音書では「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・万物は言によって成った。成ったもので、言によらずになったものは何一つなかった」(ヨハネ1:1-3)とあります。私たちはいろんなものを恐れながら生活しています。失敗したらどうしよう。あの人たちはどう思うだろうか。いじめられるのではないだろうか。殺されるのではと心配です。弟子たちもキリストに従うにあたり、いろいろな恐れがわいてきます。ちなみに「おそれ」という漢字を調べると18個もありました。それほど多くの恐れがあるのです。そんな中で神を畏れることが一番大事なのです。市場で売られている一羽の雀さえ、神の御心でなかったら落ちることがないと言われます。どんな小さな事象も神の知恵(法則)に反して起きていません。この言葉は限りない慰めと励ましがあります。私たちの現状がどのように絶望的であったとしても、そこには必ず神様の御心が支配しているということです。ただしそれは自分の思いがいつかは叶えられるという自分が中心ではありません。もしそうであるなら、。そこには絶望が待っているだけです。わたしのすべてが打ち消されたとしてもそこに御心があるのです。どんな小さなことでも、またどんな大きなことでも、そこにはちゃんと神の思いが込められていマス。私たちはそれにつながるのです。
恐れるな 空飛ぶすずめ一羽さえ 御心ならずば落ちることなし
さらに、公の席での信仰告白です。こんなことを言ったら、どう思われるかしら、つい心配になる。それは当たり前です。そう思うのが信仰がないのではない。信仰は勇気ではありません。何を見るかです。主がこの世を支配しておられる。この弱さを包んでくださっているということに心をとめることでしょう。人間の勇気や意志には限界があります。マリアさんが「御心が成りますように」と告白したように任せることです。イエスを自分で背負うのではありません。主が背負ってくださいます。クリスマスにあたり圧倒的な神の恵みに自らをお任せしましょう。



日本基督教団 世光教会のご案内

世光教会の礼拝に参加をしてみたいとお考えの方、キリスト教会は、キリスト教信者だけが集うところではありません。
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いつでも、皆さまのお越しを、心から歓迎いたします。
世光教会では、結婚式をはじめ、キリスト教による告別式など冠婚葬祭も心をこめておこなっています。

聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。