今週の説教要旨

HOME   >  今週の説教要旨

2016年1月24日                                    降誕節第5主日礼拝

「 今年もこのままに 」 

榎本 栄次 牧師

ルカによる福音書   13章1-9節

 福音には裁きと許しが表裏一体しています。妥協を許さない厳しい裁きと、徹底した無限の赦しです。今日のテキストによれば、実のならない木は切り捨てられるという厳しさと、実らない木に肥やしをやってもう一年待ちましょうという忍耐です。
 まず、恐ろしい裁きの宣言があります。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(13:5)。イエスのところに何人かの人が来て「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」という報告をしました。これはローマ政府に抵抗し暴動を起こそうとしたガリラヤ人の多くが弾圧され殺された事件がありました。これは神の裁きかと問うているのです。
また、「シロアムの塔が倒れて18人が死にました。これについてどう考えるのでしょうか。彼らは神に罰せられたと考えるとしたらとんでもない的外れです。主イエスは彼らに、あなた方こそ悔い改めなければ成らない者であることを宣告し、神に対する悔い改め「方向転換」を呼びかけます。大きな不幸にあっている人たちのことを「あの人たちは何か罪を犯したから」などと的はずれなことを思わないで、方向転換をしなければならないのです。エゼキエル18:30には次のように勧めています。
「それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはお前たちひとりひとりの道に従って裁く。と主なる神は言われる。悔い改めて(向き直り)、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」。(エゼキエル18:30-32)主は人への裁きが目的ではなく、人が生きるようになることが目的なのです。
裁きの話(1-5)を受けて、後半(6-9)のいちじくの木のたとえになります。主人がぶどう園にやって来て、いちじくの木に実が無いのを見て「もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」と怒りました。これは前の「悔い改めなければ滅びる」と意を一にします。3年間というのは、神が地上に遣わしたイエスの「神の国は近づいた。悔い改めよ」との宣教の期間でした。ところがこの地上は悔い改めるどころか、主を十字架にかけようとしているのです。ここに厳しい神の裁きが下されて当然です。旧約聖書のミカ書では「わざわいなるかな、わたしは夏の果物集める時のように、ぶどうの収穫の残りを集める時のようになった。食らうべきぶどうはなく、わが心の好む初なりのいちじくもない。神を敬う人は地に絶え、人のうちに正しい者はない」(ミカ7:1-4)として厳しい裁きを預言しています。
旧約聖書と異なるのは、この主人に対する園丁の答えです。「御主人様、今年もこのままにしておいてください」これまで3年間、主人の期待を受けて実を結ぶよう努力した園丁の苦労はすべて無駄に終わりそうです。主人の怒りは当然です。その時「もう一年このままに」「周りを掘って肥やしをやってみます」と頼むのはイエスの人々への愛と期待です。十字架にかかって罪を贖うことでした。その犠牲によって人々は悔い改めるだろうという期待です。神を信じることは人を信じることです。厳しい神の裁きを自ら引き受けて、最後まで人を信じて下さるイエスの愛は永遠です。
裁きの無い赦しは無い。怒りの無い優しさはない 厳しい暑さの中で 一杯の冷たい水がうまい 酷寒の中で 暖かい抱擁がありがたい 神の厳しい裁きの陰で キリストの贖いが痛くこたえる。


日本基督教団 世光教会のご案内

世光教会の礼拝に参加をしてみたいとお考えの方、キリスト教会は、キリスト教信者だけが集うところではありません。
厳かな雰囲気と温かみのある空間で、清々しい祈りの時間をお持ちいただけます。
小さなお子様づれでも安心してご参加ください。
また、信仰のこと、心に抱えている悩みごとなど相談したいことがございましたらご遠慮なくおいで下さい。
いつでも、皆さまのお越しを、心から歓迎いたします。
世光教会では、結婚式をはじめ、キリスト教による告別式など冠婚葬祭も心をこめておこなっています。

聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。